戦時下の盛岡中学   46    増田眞郎(昭和20年卒業生)

最後の仕事

 4年生は6月16日に平塚にやって来た。しばらくぶりで会う懐かしい姿に勇気づけられた。彼らはわたしたちと同じプロペラはねの製造工場で働くことになったが、わたしたちの作業を見学に来ただけで、とうとう一緒に働く機会をもたなかった。

  わたしたちは動員中、機銃掃射などには遭っても、焼夷(しょうい)弾攻撃で焼け出されることはなかった。仕事もたくさんして、ずいぶん多くのプロペラを作りだした。その点、先の動員先の川崎で焼け出され、平塚に来てまたもこのあと焼夷弾攻撃に遭い、工場での仕事も少なかったという1級下の人たちは、はるかに不運であった。

  6月20日に、皇国第1816工場の退所式が行われた。わたしたちの総指揮者であった袴田第一工作係長は、目に涙を浮かべてわたしたちを送られた。

  帰盛の日はまだ決まっていなかったので、退所してもその日までは働こうと、翌日も工場に行ったが、工具を全部返還して休息しろということで、ぼうぜんとしてしまった。

  戸外で休んでいると、疾風が1機、工場の上を何度も旋回している。あのプロペラはわたしたちの削ったものだろうか、わたしたちは精いっぱい働いたが、どれだけ役に立っているのだろうかと、しばし感慨にふけった。

  その翌日も、また工場に出た。ちょうど、キ九四−第2案という試作機のプロペラを削る仕事があったので、頼みこんで、ラボー班はそれを削らせてもらうことにした。

  当日出ていたラボー班は18名であったが、18名が1本のプロペラに群がって、朝から夕方までかかって、遂に削りあげた。そのときはどのような飛行機のものか知らなかったが、それは試作中の高々度戦闘機のものであったらしい。ずいぶん巨大なプロペラであった。白堊健児の真価をみよとばかり、仕事を終えたわたしたちは、言い知れぬ喜びに浸った。

  これが平塚での作業の終わりであった。23日には、帰盛の日時が分かり、24日までを、荷作りその他帰盛のための準備に費やした。24日の昼は、工場で幹部の人々と会食し、その後現場の人々に別れのあいさつをして回った。


  6月25日午後1時20分、懐かしの花水寮を後にして、いったん工場に行き、それから駅に向かって、午後4時30分、平塚駅をたった。相模川の鉄橋から工場の黒い建物が見え、やがてそれが視界から去っていった。


  これでわたしたちの勤労動員も終わった。

  帰路は幸いにして空襲にも遭わず、上野からの列車も、無事夜の東北路を北上して、翌26日朝、最後まで平塚に残っていた数十名が盛岡に帰った。駅頭の別れが事実上の卒業の別れであった。


  皇国第1816工場の場所は、現在日産車体の工場になっているという。平塚の町並みはすっかり変わったが、東海道線の鉄橋から眺める工場の辺りの景観は、不思議なことに、わたしには昭和20年当時のときと同じように見える。(終わり) 


  コラム

 ■六原道場追憶

 その1 出発風景
  3年生の6月、1週間の六原道場訓練のため盛岡駅を出発の時、一般客より先にわれわれ団体の改札が始まり、ただちに乗車したので、車内の座席はわれわれが占領し一般客は通路に立たざるを得なくなった。

  そこへ、見送りに来られた新田校長は、ホームから客車の数カ所ごとに窓を開けさせ、窓越しに「生徒は全員立て。そして一般客に席を譲りなさい」と叫び回っておられた。

  その2 校長の視察
  数日後、新田校長が道場を視察に来られた。たまたま畑の除草作業中で、畑の雑草を根に土が付着したまま道端に集積していたのを見た校長は「雑草の根に付いた土はもったいないから畑に返しなさい」と注意された。


  そのときは、土に変わりはなかろう、そのままでもいいのに、と思ったが、後になって畑の土は年々肥料を施した肥えた土壌で道路の土とは違うと知り、反省させられた。

  その3 留守居の仲間に感謝
  1週間の訓練を無事終えて帰校し、真っ先に驚いたことがある。

  わたしは3年乙組で担任は高橋元昭先生だった。
  教室の壁色は黄色でありながら経年の結果、すすけ黒っぽく変色。しかも突き当たりの教室とあって廊下がなく両側からの採光もできなかった。


  健康上の理由で六原行きに参加できない留守部隊(4、5人だったか)がわれわれの留守中に教室全体の内壁を真っ白に塗り替え、懸案だった照明度がよみがえった。留守部隊の努力のたまものだった。

  先生をはじめ同級生一同の感謝感激を浴びたことは言うまでもない。

 その3 留守居の仲間に感謝(続き)
  一転して教室が明るくなった2学期のある日、前触れもなく放課後、先生も交えて全員居残りでクラスの隠し芸大会が行われた。
  最初、教室内装の立役者高橋昭(と思うが)君が壇に上がり、「月光の曲」を歌いますと宣言したので、一瞬、この場でベートーベンとはさすが、と思いきや、「デタデタツキガア、マアルイマアルイマンマルイ、ボンノヨウナツキガア」と……。一同唖然。
  続いて多田禮一君、「うさぎ追いし、かの山、……」と真面目に歌い出した。また笹森典雄君が手拭いで頬被り、掃除用の箒を持ち出し、腰を曲げて踊る姿は爺さん踊りにソックリ、暫し緊張の場の教室も忘れて心ゆくまで級友の芸を楽しんだ。そしてその余韻褪めぬ間に薄暮を下校の途についたのだった。 (村田榮男)

 ■六原道場での思い出
 
  訓練最終日の講習のとき、他校生も一緒にいる前で場長先生が「質問があったら何でも訊いてほしい」と言われたが、誰も質問する者がない。盛中のメンツにかけてと思い、もうすっかり洗脳されたのでしょう、天皇は生き神様で死ぬことがないと思い込み、しかしどうも解せなくて「天皇は死なないそうですが神武天皇は何歳になりますか」などとどえらい質問をしてしまい、周りはシーンと静まりかえりました。「しまった」と思ったけれどもう遅い。暫くして「この件については後で担任の先生からとくと説明致します」とのこと。その、とくと説明のあったのは日本が負けて天皇が国民に対しての第一声「天皇は人間である」の人間宣言でした。なにせそれまで天皇は神でした。しかしあの時はいつ叱られるかと、それに研修生として入所していた姉にも迷惑がかからないかと、心配したものですが、後日訊いたら「何でもなかったよ」と言われてほっとしたものでした。今思えば馬鹿げた話です。(萬藤五郎)

  【事務局より】
 前回、川守田氏から紹介あった太田達人先生の件、ご親戚の太田愛人さんから一報あり、『あの授業は、達人先生ではなく、太田重国先生だった。重国先生は京大の物理を出た方。授業のはじめに、達人先生の親戚かと訊かれて、そうです、と答えた記憶がある』とのことでした。真相は以上のとおりでした。


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