戦時下の盛岡中学   48    村田榮男(盛中60期)

松尾鉱山の思い出・続き
「掘削機械を引いて探鉱」
 
   
  われわれの最初の作業は鶉山(うずらやま)鉱区の褐鉄鉱(かってっこう)の露天掘りだった。一帯は黒茶色の山で、スコップとつるはしを使って掘り、トロッコに積み込む。時々掘った褐鉄鉱内に白い粘土が交じると、その都度それを取り除く。

  休憩の午前10時と午後3時および昼食時に合わせ、前方の野田山の露天掘りから発破の音がこだまする。

  そして午後5時、作業を終えて鶉山住宅の坂道を西日を背に受け、長い影を踏みながら、動員の歌「打てば火を吐くハンマーが…我等勤労(きんごろー)報国隊…」と歌って帰途に就いた。金悟楼そっくりの先生が佐賀中学から着任されていた…。

  寮では、先生が既に風呂から上がり、吹き出る背中の汗をタオルでぱたぱたたたいていた。続いてわれわれも夕食前に入浴する。


  その後われらチビッコ組は探鉱班や索道の鉱石運搬積み卸しと、次々に職場を代えた。


  探鉱班は、秋田鉱専出身の班員と付け人(年配者で、通称は親父(おど))1人に学徒が4〜5人。他の同級生から離れたささやぶの山を掘削機械を台座に乗せてロープで縛り、クマザサを分けながら、登り勾配(こうばい)を前2人が引っ張り、後ろ2人が後押しで指定場所まで引き上げる。


  掘削は2人が機械の両側に立ち、各々ハンドルを握り、力を込めて手回す単調な作業で、鉄管が徐々に掘り下がる。初めは表土が柔らかいので進ちょくが早いが、安山岩に突き当たるとなかなか沈下しない。


  こうなると午前、午後とかかっても、灰色の安山岩は約15センチのコア(芯)の出来映えにすぎず、ついに褐鉄鉱にはお目にかからなかった。


  …索道の作業については中谷氏の記述に譲ります。

  ◇    ◇
  動員生活中は鉱山側の配慮で、夕食後に食堂を会場に先輩と語る会が開かれ、探鉱課長や病院の医師など6、7人の諸先輩と向き合って語り合った。


  ある時は夕食後のひとときに、会社の方の案内で寮からさほど遠くない秘境ともいえる涼風の白樺高原を散策した。新鮮な空気を吸い、周囲の遠山を見回しては日中の暑さをしばし忘れ、風景を満喫してあすへの鋭気を養った。


  週1度の休養日(日曜)を利用して鉱山山岳部員の案内で茶臼岳、八幡平登山が希望者により催されたが、毎日の労働の続く中で、休養日を犠牲にすると連続15日の重労働になるため、熟慮の末、何十人かが不参加を決めた。


  こんな重労働の中でも、勉強家のK君などは夜9時の消灯後も食堂の後片付けの明かりを頼りに一人で勉強していた。それが高橋元昭先生に見つかって大いに注意されたという。

  先生は当然、健康を心配されてのことだったろうが、勉強をしかられたというのは後にも先にもこの時だけだったろう。


  後にK君は武蔵工専、仙台工専土木科に合格したと聞いた。


  時には軍需工場慰問のためと、老松会館において漫談家大辻司郎の演芸の夕べなどもあった。
  また、動員期間の7月20日から9月20日までの2カ月間に、高橋元昭先生に召集令状が来て、鉱山事務所前で出発式が執り行われた。

  先生は「今着ている作業服と地下足袋を履いたまま入隊します」と言い残してバスの人となり、姿が見えなくなるまで、手を振り続け、別れを惜しんだ。

  続いて間もなく今度は目時隆太郎先生にも令状が来て、われわれの前で現在の心境をと、短歌に示し「…お召しを受く云々」と披露された。


  高橋先生は入隊後間もなく帰郷させられ、翌年冬に再度応召された。

  8月1日は鉱山最大の行事である「山神社(さんじんさま)の祭典」。
  神社は小高い丘の上にあり、のぼりが立ってはいたが出店はなく、家族の参拝の人影もなかった。平時は家族ぐるみで祭りを楽しみに待ち望み、山を挙げてお祝いし、大いに盛り上がったのだそうだ。

  われわれは動員期間中、折に触れて無事を祈願して自由に参拝したものだ。

  祭りの当日はそれでもわれわれの夕食はお祝いのお赤飯だった。


  動員中、二度ばかり乾燥バナナの特配があったが、なんともこれがバナナかい?というようなニチャニチャしたものだった。


  9月には先代の中村房次郎社長が亡くなり、作業終了後自由に鉱山のお寺の本堂に飾られた遺影を拝し、ごめい福をお祈りした。


  そのほか休日を利用して坑内や精錬場の作業現場を見学もした。坑内は天井から酸性の雨滴がしたたるため、ゴム合羽(かっぱ)を着て入坑し、切り羽(採掘現場)まで行って見学した。


  途中、薄暗い坑内で一段と照明の目立った広場には事務所があり、技術員が執務していた。
  精錬場内は硫化鉄鉱を硫黄に精錬の過程で発生する亜硫酸ガスを防ぐため作業員はマスクを着用していた。

  やがてわれわれ4年生にも神奈川県平塚への動員が決まり、既に動員中の5年生と合流するべく、2カ月(途中一度降りてはいるが)に及ぶ思い出を後に19年9月20日、山を離れることになった。


  出発の時はみぞれ模様の天気だったが、変電所付近を通過のころは一時小雪が舞っていた。
  東北本線に乗り換え、順調に厨川駅までは来たのだが、所定の時刻に発車せず、しばらくしてから「騎兵踏切道」(現在の馬頭踏切道)で戦車とかの立ち往生とかのため、遅れて盛岡駅に到着したのだった。


  そして10月6日、教育会館で他の中等学校とともに結団式を挙げ、駅前広場では下級生の応援歌と父兄の方々に見送られて、午後4時すぎの常磐線回りの上野行き列車にて平塚へと向かったのであった。(つづく)


 

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