戦時下の盛岡中学   49    萬藤五郎(盛中60期)


松尾鉱山の思い出・続き
「一目散に食堂へ」


  萬藤五郎氏の証言
  ■はじめに
  60年前の出来事、じっと目をつむると、頭の隅に午後の太陽に照らし出された汗びっしょりの半裸体、脚にはゲートル、地下足袋履いて、茶褐色の山肌を踏みしめ、身の半分もあるつるはしを振り下ろす15歳の少年たちの姿がはっきりと映し出される。

  時は昭和19年夏、盛岡中学4年生が、硫化鉱増産のため、八幡平に接する松尾鉱山に学徒動員された姿である。


  出発(7月20日)にあたっては、まず鉱山という未知の世界への配置に対する驚きと心配があった。

  一方では、学徒動員が厳しくなった時というのに、学校側によって急きょ選ばれたグライダー部員(滑空班員)の動員不参加に対するうらみもあった。


  ■どんぶりてんこ盛り
  山神社前でのセレモニーが済むや、一目散に指定された寮の食堂へ駆け込む。
  大食堂の長いテーブル上にはもう食事が用意されていた。ご飯はラーメンどんぶりに、当時は見たこともない「てんこ盛り」だったのには驚いた。家庭での米の配給は1日たった2合3勺(せき)だったから。

  それが、その日からは炭鉱労働者並みの1日5合と倍増したのである。

  お総菜はたしかオムレツだったと思う。ご飯はみんな半分近く残した。

  賄いのおばさんは「2、3日もしたら少ないって言うくせに」と笑っていた。

  ほんとにその通りだった。数日すると労働が厳しく、腹が減り、誰も食事を残す者などなかった。食後は順番に入浴し、自由時間となるのだが、勉強しようと、本を広げてもすぐまぶたがくっつき、寝るにしかずと、慌てて南京虫対策をして眠るのだった。

  南方から食物を輸入するとき、袋に付いてきたのだという。対策とは、脚に靴下、そしてゲートル、手には手袋と長袖のシャツ、顔には手ぬぐい、それでも唇にキスされて赤くはれてしまい、翌朝、互いに顔を見合わせて大笑いになった。

  ■作業
  作業人員の編成は、軍隊同様、小隊や分隊に編成され、幾種類かの作業に就いた。
  ただわれら学徒は坑内の作業には就かず、露店掘りはやらされた。がけや平たん地の岩塊をつるはしで掘り、スコップでトロッコに積み、集積所に運ぶのが主たる作業。


  2人1組でノルマは1日に午前、午後でトロッコ2台。体の小さいわたしらにはきつい労働だった。
  そんな毎日で寝ること、食べることだけが日々の楽しみとなり、忍耐力の鍛錬の場でもあったのだ。

  ■トロッコ搬送
  一番つらくて危険な作業は、採掘現場の集積所と屋敷台でのリフト乗り継ぎだった。
  現代のスキー場のリフトと同じで、第1リフトを中継所で受けて、第2リフトに移し替えるのである。直径10メートル以上もあるだろう運転中の輪転機に、トロッコを押しながら、カチッとセットする。

  空振りすると足場の下は、トロッコから崩れ落ちた硫化鉄鉱石だ。わたしは後でこの作業から外されたが、怖さのあまり欠勤者が出ると、残りの者は作業量が増える。

  とにかく事故がないようにと祈りながらの作業だった。時には夢にも見るような危険な作業だったが事故者が出なかったのは幸いだった。


  その作業場所は鉱山と屋敷台の中間にあり、行き帰りはトラックで、毎日雲海を出たり入ったり、人員も少なく、食堂もなく、弁当持参のさみしい職場だった。


  ■坑内労働者
  今思い出しても悲しく思うのは、見てはいけない現場を見てしまったことだ。
  それは、秋も深まりはじめ、吐く息が白く見える夜明け前の時間だった。騒々しい叫び、「アイゴー、アイゴー」の声に何事かとそっと寮を抜け出して坑口付近に行ってみた。

  坑内作業者の交代らしい。中から出てくる、南京袋製の作業服に身を包んだ労務者にアルマイトのおわんが渡され、一列に並んで雑炊の特配を受ける場面だった。

  列を組みながら、「アイゴー、アイゴー」と口ずさむその声の何と悲しげで哀れなことか。
  両側にはラッパズボンの精悍(かん)な男がむちをピシピシ鳴らしながら行き来していた。ハハー、これが朝鮮から徴用された労務者か。と、少年の胸に何とも言えぬ哀れな思いが黒く染み込んだのだった。


  松尾のほか、秋田の尾去沢でも同じような光景がみられたと後で聞いた。 (つづく)

 


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