戦時下の盛岡中学   50    中谷真也(盛中60期)

松尾鉱山の思い出・続き
思い出の断片−「先生をからかった手紙が検閲に」


■思い出の断片
      
  昭和19年夏。われわれ盛岡中学4年生は、銃後の学徒として、滅私奉公の熱意に燃えて、勇躍動員先の松尾鉱山に赴いた。

  わたしが着くのを今や遅しと待ち受けていた人がいた。手ぐすね引いて。

  宿舎に入るやいなや「乙組中谷ッ、職員室に来いッ」「中谷まいりましたッ」

  M教諭の目が意地悪そうに光った。「この手紙を出したのはお前だろう」

  われわれより1カ月早く入山して、今回交代した3年生の遊び仲間に出した手紙だった。

  仕事も大変、笑いにも飢えているだろうと思って先生たちのあだ名を戯(ざ)れ歌調にからかった文面だった。差出人のところにちゃんと自分の名前があるからとぼけようもない。うかつだった。

  よもや手紙の検閲があろうとは、悪戯慣れしているはずの悪ガキも知らなかった。

  悪いことに、このM教諭のくだりが割と多かったのだ。この先生、盛中の先輩のくせにジョークを解さず、下級生の勤労意欲を低下させたとか何とか、あげくは非国民の、国賊のとネチネチ2時間近くわたしを絞り上げた。

  今ならまことにこっけいな飛躍に聞こえるが、当時とすれば大方こんな感覚の世相だったから、なんでも「はい」「はい」。

  先生たちにしてみれば、この検閲は結構楽しく、ヤマの無聊(ぶりょう)を慰めるのに手ごろなネタだったのだろう。ともあれ、その後の手紙は「拝啓ご無沙汰(ぶさた)しましたが、僕も益々(ますます)元気です…」といういたって文学性に欠けるものになった。

  さて肝心の仕事は、いくつかの班に分かれて採掘やら運搬の仕事が割り振られた。
  当時、松尾鉱山では硫黄と褐鉄鉱の採掘が行われていた。硫黄は坑内採掘、褐鉄鉱は露天掘りだった。

  われわれ動員中学生は、坑内作業はごくまれで、主に露天掘りと現場のトロッコ運搬、そして索道運搬の作業を分担した。

  わたしの班は、屋敷台口の索道作業が受け持ちだった。索道は、上の元山と下の屋敷台の間、約4キロを結んでおり、元山からは褐鉄鉱、精錬硫黄を屋敷台に降ろし、逆に屋敷台からは生産、生活資材を元山に上げる、いわば鉱山の動脈路線である。

  仕掛けは、大体今のスキーリフトと同じだが、いすに当たるところは大きいバスケットになっていた。

  屋敷台口に到着すると、搬器に取り付けられた車が、屋舎内を巡るレールに乗り、同時に掴(つか)みがワイヤーから外れる仕掛けになっている。ワイヤーは直径5メートルほどの水平盤の溝を回って元山に戻っていく。

  われわれの仕事は、レールに搬器が乗ったところでバケットを受け取り、屋舎内をゴロゴロ押して深い漏斗(ろうと)状の鉱石貯留場の上で、取っ手を引いてバケットを反転させ、鉱石を漏斗に落とす。

  その後、屋舎内を一巡して、搬器を元山行きのワイヤーに乗せて戻してやる。
  この作業の繰り返しが一日続く。言ってみれば誠に単純なことなのだが、実は結構緊張感を伴う仕事であった。


  というのは、屋敷台の受け口と上の鉄塔とは、かなりの落差の急こう配になっている。
  搬器の掴みが緩いと、ここで搬器がスリップする。なにしろ搬器自体がかなりの目方であるのに加え、積まれた鉱石は200キロは優に超えている。これが猛烈なスピードで落ちてきたら大変なのだ。


  「はぐい(半食い)だッ」誰かが叫ぶ。

  一目散に逃げる。搬器が煙を上げて滑ってくる。「ガチャン」「ドスン」と前の搬器に衝突して、火花とともにもうもうの土煙。もろに食らったら「名誉の圧死」である。

  さらに、搬器を押して行く鉱石貯留所の奈落の漏斗の上は狭い板1枚を渡しただけだ。
  足を踏み外したら、あり地獄へと真っ逆さま。その上に、気付かずに誰かが鉱石でも空けたらと考えたら、これも命懸けの仕事なのだった。

  幸い、大きな事故を見なかったのは、現場で一緒に働いた熟練作業員の人たちの心遣いがあったからだ。(つづく)


 

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