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■松尾鉱山と平塚工場
「学業より労働が優先」
■松尾鉱山と平塚工場
松尾、平塚と4年生は渡り鳥のように生活の場を替えた(昭和19年〜20年)。
学業より労働が優先し、スポーツより肉体の酷使が、病人を増やした。
私にはもう1つ柔道が加わり、いま考えてもよく続いたものだと思っている。
3年生で初段、4年の終わりには2段の試験に受かったが、対校試合は戦中のため無かった。
松尾では、褐鉄鉱の露天掘りを、朝鮮から連れて来られた人々と一緒に続けた。
鉱床から清冽(せいれつ)な水がわいていたが、労働時間にその水を飲んだ人は下痢をした。酸性が強かったのだ。朝鮮の人は、働いている時は汗が出るから飲んでも良いが、汗をかかない時は飲むな、と教えてくれた。彼らは、少年労働者に同情してくれた。休日に、日朝の銃剣術競技があったが、圧倒的に中学生が強かった。日ごろ、対馬教官から鍛えられていたので、初めての人に勝つのは当然であったが、うれしくはなかった。第一、腹が減った。
休日に八幡平遠足を試みたが、宿舎から比較的近いので、苦もなく登れた。
そこで展開された雪と針葉樹と池との世界は、鉱山生活に比べると天上的世界で、若い心を魅了した。そこは硫黄のにおいもなく、酸味の水も無く、歩く土は雪融けだけに軟らかだった。こんな世界が身近にあったのかと、比較しながら歩いたが、自然林と人工の鉱山の違いが歴然としていた。
夕方までに宿に帰らねばならないが、できることならここに宿まりたいといううちなる自然願望が突然芽生えた。
松尾鉱山には未練は少しもないが、八幡平経験は運命を変えるような契機を私に与えた。
そして、松尾から平塚に出稼ぎ先を替えたころから、4年生強制卒業の暴挙が文部省から出され、昭和20年は4年生、5年生同時に卒業と決まった。当然、半分は浪人で工員として働かされることになる。どうしても4年生は不利であった。この史上最悪の卒業は、国家存亡の危機に対処するための措置である。受験勉強なしに工場から志望校に向かうことが当然とされた。しかもプロペラ削りは夜勤まで強制されていたので、体調を崩す者が続出した。柔道で鍛えたわたしは無休で動けたが、受験のほうは無手勝流であった。それよりも、近くに海軍の火薬研究所や火薬庫があるため、空襲におびえなければならないし、宿舎の前に広がる相模湾は、米軍上陸の有力ルートとの噂も伝わってきた。とにかく平塚を脱出することが生命の安全につながることだと、防空壕(ごう)の中で陰謀を練った。こんな時に、あの八幡平の風景がよみがえったのだった。
地獄巡りから天上に赴くためには、受験の関門を抜けねばならなかった。
そんなとき、食糧確保のため農科系の学校のみ4月入学で、あとは合格できても6月まで入学足留めという噂が流れた。こうなると命がけの受験となる。こんなところで死ぬなど愚かの極みと判断し、考えついたのが、林学という学問である。入学すると演習林に行って生活し、動員先も営林署と知って、山林には全く無縁な家なのに中学校の隣の高等農林の林学科を受験することに決めた。全く独自の選択であったが、われながら会心の決定と自画自賛した。そのくせ、林学とはどういう学問かも分からないのだった。
さて入ってみたら、数学がやたらと多いのに驚き、しまった、と思った。
林学生志望は、あの八幡平体験の導きによるものだった。
工場も入試のためなら休めたので、悠々と帰郷した。幸いにも講道館の昇段試験が重なり、こちらの方は難なく初段を3人投げ飛ばして2段に合格した。
農専合格の通知を受けたときはうれしかった。
4月入学の特権は即ち爆死の可能性が少ないことを意味したからである。
6月入学予定の、他校合格者たちには大いにうらやましがられたことを覚えている。
旅先の暮らしから、自宅で暮らせ、しかも空襲からも免れるから気も安まる。ヒジキとか、里芋の茎の食事からも逃れることができた。…後年、平塚農協から講演を頼まれて行ったとき、戦争末期のことに触れ、イモが取れるのに、クキばかり食わされたと、イヤミを語ったら、聴衆は苦笑していた。
昭和19年の大みそかに、3日分の食べ物が配られた。戦時特配らしく、正月らしい食品も加わって、枯腸に苦しむ中学生を喜ばせたことがあった。しかしその後がいけなかった。
普段まともなものを食っていなかったので3日分を供されて、ある者は1日で食ってしまい、あとは断食という悲劇を招来することになった。正月早々食う物が無く、部屋にいると退屈と空腹に苦しみ、無為の身をもてあまし、海岸に出れば、波間にイワシやアジが跳びはねるのを目撃した。中には農家からサツマイモを買って、屋根に並べてホシイモを作る豪の者もいたが、多くは空腹に耐えて生き抜いた。この虜囚(りょしゅう)のような生活で得た教訓も多い。
何よりも死者が出なかったことが良かった。
個人的に見ると、窮乏の中で自然から与えられた啓示は大きかった。
飢えに耐えながらも、働いた賃金で自立することを覚えたことも、貴重な教訓だ。
中でも、戦争の愚かさを体験したこと、これは最大の収穫であった。(横浜市在住)(つづく)
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