戦時下の盛岡中学   54    小市巳世司(昭和15〜17盛中勤務)

コラム集「戦争と私」

 
■私と軍隊

  生まれは東京、一九一七年ロシア革命のあった年。今年86歳(二〇〇三年)。
  昭和5年湘南中学入学。軍事教練週2回。翌年満州事変ぼっ発。全国的に学生らの検挙相次いだ。軍事教練は旧制高校でも行われ、あの2・26事件もそのころ。
大学3年では習志野の兵舎で何泊かの訓練を受けた。

  大学を出てすぐ(昭和15年)はるばる盛岡中学に就職したが、翌16年10月、教育召集で麻布の近衛歩兵三連隊に入営。

  一人だけ中隊長に呼ばれ「八紘一宇」その他侵略戦争正当化の標語を問いただされる。
  盛岡時代、むちゃなスキーで傷めた古傷で演習を休んだことから無法な言いがかりをつけられてビンタを食らう。しかしこの召集は3カ月で済んだ。

  ■柳田国男先生のことなど

  麻布三連隊近くに竜土軒というレストランあり、戦後中国から帰還して教科書会社に勤めたころ、柳田先生のもとで高校の国語教科書を編集。3年かかって出来上がったとき、先生が竜土軒にスタッフを招待してくださった。

  田山花袋、国木田独歩、島崎藤村など大いに文学を語り合ったところだと、楽しげに話されたのが印象に残っている。


  そして昭和17年4月、2年勤めた盛岡を去り、今度は土屋文明の助手として鹿持雅澄の万葉集古義の仕事に携わり、傍らアララギ発行所の手伝いをしていた。


  ■太平洋戦争のころ

  昭和18年、2度目の召集で甲府の連隊に入隊。以後朝鮮を経て北満、それから南下して南京へ。階級も一等兵。それから敗戦までの2年間、実にいろいろの経験をし、学んだ。


  兵隊同士の結びつきの強さ、思いやり、そうしたことで大きな感動を何回も経験した。

  そんなある日、ある農家の庭先で友軍の兵隊たちが鶏や野菜で食事の準備をしていた、農家の人は誰もいない。わが日本の兵隊は、つまり略奪行為をしていたのだった。

  この「略奪」を日本軍は「微発」にすり替えてわれわれの良心をまひさせていたわけだ。
  つまり、あまり気もとがめずにひどいことをしていたのだった。

  ■外地での教師生活

  昭和18年から19年にかけて、南京近くの徐県という町に駐留中、県立の小学校や初級中学校、省立中学校で日本語の授業を持たされた。そのころの歌を一首。

  苔の中に草を掘るあり横笛を
   吹くあり 山に男女の生徒
 
  それから、1年、陸軍省臨時嘱託として中国旅行中の土屋文明に2度ほど会った。
  大東亜文学者の集まりとかで、戦意高揚の会に呼ばれて行ったが、土屋先生とあまり話をする暇はなく、早々に帰った。

  ■わたしの8月15日

  昭和20年8月15日をわたしは南京司令部の報道班で迎えた。報道班というのは僻地住民の宣撫(せんぶ)がその仕事だった。

  終戦の詔勅(しょうちょく)は雑音がひどくてよく聞き取れなかった。

  内務班に帰るとき、ある兵隊が「古事記の神話はどうなんです?」と質問してきた。

  とっさに反応したわたしは神話と歴史的事実との違いをごく簡単に話したら、彼は納得したのか何かほっとした様子で離れていった。

  私も胸のつかえが下りたような気がした。

  「戦いはこれからだ」などと、抜刀して息巻いていた将校もいたが、この兵隊のような人もいて、日本も捨てたものではないと思ったものだ。

  翌年3月復員。

  焼け跡生活はひどいものだったが、平和は有り難いとつくづく思った。

  一番うれしかったことは、道を歩いていきなり交番に連行され、たもとの中を調べられたりすることがなくなったことだった。

  旧制高校時代、白線の学帽をかぶっていただけで「国賊だ」と頭を竹刀でやたら打たれたことがある。何も物が言えないのだった。

  何をされても物が言えない、これが戦時というものだ。戦場で敵弾の雨の中を逃げ回るのも怖いけれど、日々の生活の中で何をされても物が言えないのはもっと恐ろしい。

  そういう世の中にならないようにと祈らずにはいられない。
  若き感傷が耐へしめしならむ天皇の
   名に借りし私的暴力にも
 
  我に昭和は何なりしかと歩み行く
   冬枯れにける代々木の原を  (青南短歌会) 


 

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