戦時下の盛岡中学   56    浅沼俊典(盛中60期)

思い出の歌

 ■赤とんぼ

  この歌を聞くと、恐らく誰でも子供のころのことをひとつやふたつは思い出すのではないか。わたしは、子供のころをではなく、戦時中の学徒動員のころを思い出す。

  旧制中学校4年生の1944年から45年にかけて、わたしは学徒動員として、神奈川県平塚市の軍需工場で陸軍の戦闘機のプロペラを作っていた。わたしと同じ職場には、地元の女学校の生徒も動員されていた。


  戦時中のこととて、もちろん彼女たちと交際などできるはずがなかったし、公然と話もできなかったが、それでも、彼女たちが職場にいるというだけで、わたしたちは、どんなに日常の生活に張りと潤いを感じたことだろう。

  昼休みには、女学生たちは工場の敷地内のアカシヤの木の下に固まって休んでいた。彼女たちはよくしゃべり、そして、何の屈託もなく笑った。


  わたしたちも、その近くで休んだが、大部分の者は、横になって眠っていた。ある者たちは、故郷のこと、食べ物のことなどをとりとめなく何度も話し、早く帰りたいなあ、などと大きい声を出していた。


  そんなある日の昼休みに、突然、「赤とんぼ」の歌が聞こえてきた。

  女学生の方を見ると、いたずらっぽく時々わたしたちの方に視線を向けながら歌っている。そのメロディーは、激しく郷愁をそそる。それを聞きながら、わたしたちがどんな表情をしていたか分からないが、やがて女学生たちから冷やかしの笑いが消え、みな真剣に、何度も繰り返して歌っていた。中には、涙ぐんでいる者もいた。わたしたちも、甘酸っぱい切なさと、感動との入り交じった気持ちで静かにその歌を聞いていた。

  今でも、「赤とんぼ」を聞くと、50年近くも前の光景を思い出す。あの女学生たちも、もう還暦は過ぎているはずだ。しかし、思い出の中の彼女たちは、あのころと同じだし、わたしも中学生のままなのだ。

  ■月光の曲

  平塚でのわたしたちの寮は、海岸の近くにあった。そして、そこから歩いて数分のところに松林があり、家が何軒か建っていた。

  いつのことだったろう。ある休みの夕方、一人でその松林の中を散歩していると、ピアノの音が聞こえてきた。久しく聞いたことのない音だった。吸い込まれるように、その音の方へ歩いていった。「月光の曲」だった。時々つっかえ、また繰り返される。レコードではない。誰かが本当に弾いている。どんな人なのだろうと一瞬思った。

  ずっと忘れていた音楽、それも生のピアノ。心に染みる。泣きたい思いで、その家のそばにしばらくしゃがんで聞いていた。

  寮に帰っても、「月光の曲」のことは、誰にも話さなかった。たとえ話したとしても、共感してくれる者はいなかったし、それよりも自分だけの秘密にしておきたかった。

  2週間後の休みの日、夕方にまた出掛けた。歩くのももどかしく、走ってその家に行った。

  その家はもちろんそこにあった。しかし、人が住んでいる気配がない。表札もない。そして、ずっと以前から空き家のような感じだった。

  2週間前、確かにこの家から「月光の曲」が聞こえてきた。でも、よく見ると、家はかなり荒れている。あのときは、そんなことなど全然気が付かなかった。しかし、ピアノが聞こえてきたのは、確かにこの家に間違いはない。キツネにつままれた感じだった。

  あれは、音楽を聞きたいという思いから生じた幻聴だったのだろうか、と今でも思うことがある。

  ■北上夜曲

  中学校の同級生に、晴山という友人がいた。動員時代、作業班はわたしと違っていたが、仲がよかった。彼は、実際よく働いた。いろんなことを知っていたし、よくしゃべった。情熱的な男だった。

  工場への行き帰りには、大きい声でよく軍歌や応援歌などを歌ったが、寮に帰ると、みんなで小さな声で流行歌、例えば、「湖畔の宿」、「十九の春」などよく歌ったものだ。

  ある日、晴山が、こんな歌知っているか、といって歌った歌があった。

  匂(にお)いやさしい白百合の
濡れているよなあの瞳

  みんな息をのんだ。彼はそれから、これは本当にあったことなんだと、この歌にまつわる話をした。口から泡を飛ばし、熱っぽく話した。恋とか、愛とか、少女、面影などという言葉が、ぽんぽん飛び出した。聞いているこっちの方が、興奮してきた。まるで知らない世界のことだった。晴山が、すごく大きく見えた。

  銀河の流れ 仰ぎつつ
星を数えた きみとぼく

  そんな歌詞とメロディーが、戦争の真っただ中での激しい労働と空腹のわたしたちを和ませてくれた。もしかしたら、わたしたちは、それぞれ同じ職場の、好きな女学生をイメージの中において歌っていたのかもしれない。

  彼は、海軍兵学校に合格し、皆に祝福されて平塚を発った。しかし、兵学校での最終身体検査で、腎臓結核の疑いがあると診断され、入学できずに帰され
た。

  戦争が終わって間もなく、晴山が故郷の宮古の田舎で代用教員をしていると聞き、連絡を取って友人と訪ねた。


  すっかり太って、昔と同じ明るい晴山だった。わたしたちは、山の中の分教場の宿直室で、動員時代のことなど夜を徹してひかれたようにしゃべりまくった。

  そうだあれを歌おう、といって晴山が立ち上がり、はしを持って指揮をとった。

  おれは生きるぞ 生きるんだ
きみの面影 胸に秘め
  3人は何回も大きい声で歌った。

  ラジオからこの歌が流れてきたのは、それからかなり後のことで、それが「北上夜曲」という題だった。

  それから何年たったころだろう。突然、晴山の奥さんから手紙を受け取った。彼が亡くなった。生前はいろいろありがとうございました、と書いてあった。なぜ、あんなに元気だったのにと、信じられなかった。そして、知らず知らずにあの歌を口ずさんでいた。

  匂いやさしい白百合の
濡れているよなあの瞳
  そういえば、偶然だろうが、晴山の奥さんの名前は、瞳といった。  


 

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