戦時下の盛岡中学   6    増田眞郎(昭和20年卒業生)

 授業時間数が減少

 3・4年生各1学期における授業実施状況を、それぞれ1組を例にとると、下の通りである。

 4年生の1学期には、早朝補修が国語7時間・数学8時間・歴史4時間(1日1時間のため、19日間)行われており、下表にはこれらの時間も加算されている。また雨天のため作業が中止された午後などは、よく物象の授業に振り替えられていた。

 表において教練の中には、野外教練の時間は含まれていない。野外教練は、この表とは別に、3年生のとき1日、4年生のとき3日行われており、これは登校しても授業の行われていない日数の中に算入してある。

 作業は時間割の中で行われた作業の時間数で、これ以外にも全日作業日や勤労奉仕があって、これも授業の行われていない日数の中に入っている。登校即授業でない日の多いことが、やはり戦時下を象徴しているといえようか。4年生では、英語・理科・数学、特に英語の授業時間数の減少が目立ち、一方教練の時間が激増している。

 このような統計表を作ってみると、これまで漠然ともっていた印象とよく合致することに、改めて驚かされる。4年間といっても、4年生は1学期間だけであるから、3年と3分の1年間で、しかも3・4年生ではその7割の日数しか授業が行われていないが、国漢に関しては、その後も別に不自由しなかった。

 歴史や地理に関しても、少なくとも習った範囲においては充実していたという感が深い。しかし英語は卒業後大変に苦労した。4年生における学習の絶対量の不足は、なかなか挽回できなかった。理工系に進んだ者は、数学はまずまずとして、理科特に物理にその後苦労したのではないだろうか。

 しかし、あのような戦時下において、学校はできるだけの努力で私たちを教育してくれたという感を、改めて深くせざるをえない。わたしたちは、古き良き時代の中学校の教科課程の全貌は知らないし、中学校の教育はこれだけのものと受け止めていた。

 昔を知っている先生方からすれば、大変に学力不足のままわたしたちを卒業させたと思われるだろうが、卒業後間もなく幸いにして敗戦となり、しかも次第に自ら目指す道に励みうるようになって以来、わたしたちはそれぞれに社会で十分活躍できる力をつけてきたのである。

 知識の量は少なかったかもしれないが、学科の授業だけからは得られない何物かを、わたしたちは盛中時代に与えられ、汲みとっていたのではないだろうか。

 学校が「余暇」さえあれば授業をして、私たちの学力向上に努めてくれた、そのあかしとして、昭和19年9月の状況に触れておこう。7月20日から8月20日までの松尾鉱山動員から帰校したあと、8月24日から9月9日まで授業が続いている。その間、9月2・3・4日の3日間は雫石川の砂利とりの作業であったが、とにかく随分のスピードで授業が進行した。わたしたちは、またすぐ動員になるだろうということで、果たしてどれだけ身を入れたか分からない。

 4年1組の例であるが、9月7日の目時先生の国語の時間に、「落花の雪に踏み迷う…」に始まる相当長い太平記の文章を暗唱していく課題が出されていたが、誰もやってきた者がいなかった。そのため、放課後5時まで全員残されて、暗唱できるまで徹底的にしぼられてしまった。

 もっとも、これらの日々の中には、学校はあっても、授業は1時間だけで、残りの時間は全部自習という日もあった。すでに5年生は平塚に、3年生は松尾鉱山に動員中で、先生方が多数同行されており、授業の続行は困難を極めていたのであろうか。

 その後は、作業や野外教練のみで、前にも記したように、9月16日午前の2時間の授業で、わたしたちの盛中における授業は終わってしまったのである。通信簿も4年生の1学期の記載までで終わっている。

 低学年の人たちの授業も中止されたことを聞いたのは、わたしたちが平塚において、プロペラの生産に明け暮れているときであった。(つづく)


  ■コラム「副読本のこと」

 教科の表の中で英語(正)、英語(副)、漢文、漢文(副)というのがある。これは正読本、副読本のことで、わたしらが使ったのは、漢文が「十八史略」、そして英語のほうは「フィフティフェイマスストーリイズ」だったか、「チョイスフェイマスストーリイズ」だったと思う。いずれ、短い物語がたくさん詰まった本だった(佐藤洸) 


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