戦時下の盛岡中学   60    増田眞郎(昭和20年卒業生)
 

おわりに 特異な時代の学校生活の記録

 長かった連載が終わりになる。佐藤洸氏のご尽力で実現したこの連載は、わたしが書いた標題の記録文で始まったが、同期の友人たちから寄せられた数多くの文が掲載され、わたしたちの中学時代が、より詳細に語られることになった。

  連載の終わりに当たって、一言書くようにと佐藤氏からの依頼であったが、何よりもまず長い間お世話になった佐藤氏と、連載を引き受けていただいた盛岡タイムス社に、執筆したみなとともに心からのお礼を申し上げたい。

  今回の連載では、わたしの書いたものに欠けていた松尾鉱山動員の記録も加えられた。昭和19年7月20日から8月20日まで、わたしたちの学年全員が参加した第1回の松尾鉱山動員のときに、わたしは病気をして同行できず、8月1日に遅れて入山したが、鉱山で受けた健康診断の結果が悪く、2日の午前に半日皆と作業をしただけで、3日に下山しなければならなかった。

  また9月17日以降下旬までの短期間に行われた第2回目の松尾動員のときには、本文中にも書いた通り滑空班は松尾行きから除かれ、滑空班員であったわたしは、再び松尾での作業を経験することがなかった。松尾での作業の日々については、当時友人からいろいろと聞いてはいたが、今回あらためて記録を読み、往時をしのんだ。

  わたしの書いた記録は、連載の最初に佐藤氏が紹介されている通り、わたしがつけていた日記を基にしている。当時はもちろん、これが将来役に立つことになるとは夢にも思わずに、ただ何となく書いていたものであったが、そこにはわたしたちの学校生活のことがいろいろと書き残されていた。

  従ってそれを抜き書きすることで、在学中の記録を編年体に構成することができた。こうして作られたものが、佐藤氏によって数度引用されていた「四星霜」という冊子である。在学中の出来事や行事を、それの起こった年月日を明示して列記することによって、わたしたちの在学期間をよみがえらせることができた。

  この「四星霜」は、同期会のときに幹事が印刷を取り計らい配布してくださって出席者に喜んでいただいた。しかも会の後、それを紹介した新聞記事を見て、八戸中学出身の方から年次代表の熊谷昭三氏の元に申し込みがあり、お送りしたところ、自分たちの過ごした中学時代を見るようだったとの感想をいただいた。

  さらにこの冊子は海軍兵学校第77期会の会報「江田島」にも転載されている。同期生といういわば身内を超えてこの冊子に関心がもたれたことは、わたしにとって大きな驚きであった。

  日本全国で、当時わたしたちと同年代の者たちは、中学校・工業学校・商業学校・農学校・師範学校などの学校でそれぞれの学校生活を送っていたが、わたしたちが盛岡中学で送った学校生活は、全国いたるところで同世代の若者たちが共有するものであったのであろう。

  すでに連載第1回の「まえがき」にも書いたように、今回連載された「戦時下の盛岡中学」は、この記録を主題別に編集したものであるが、これをまとめるに当たって、わたしは何よりもこのことを念頭においていた。

  すなわち、わたしたちが身を置いていた盛岡中学での生活を語っていても、実はより普遍的に、戦時下の同世代の学校生活を語っているのだという意識を持つことを心掛けた。

  しかし半世紀以上前に体験した生活を誤りなく書くことは大変に難しい。日記にある記載を抜き書きする作業は機械的であるが、日記に記されている記録を横断的に編集し、主題別に記録を書くとなると、それらの行間を埋める作業が必要になり、その際に記憶違いによる誤りを犯す可能性があった。

  また普遍性が目標であってみれば、記述が何よりもまずわたし個人から離れて、一般的であることが必要であった。先生の印象記は主観的にならざるをえないから、それは別として、それ以外については、できるだけ客観的であるように心掛けた。幸いに今回の連載では、多くの人たちの記録が加えられたことによって、同じ主題に対しても、わたしの主観にとらわれない、より広い見方がなされるようになった。

  ところで、わたしたちがここに記録されている学校生活を送ってから、すでに60年がたっている。わたしたちの学んだ盛岡中学は、わたしたちが卒業したあと、間もなくその使命を終えた。確かにそれは新制度の高等学校に改組され、現在の盛岡一高に続いていて、同窓会は両校が一体である。

  しかし現在の盛岡一高は、組織・内容ともに昔の盛岡中学とは異なる学校である。一方、現在中学校と名の付く学校は、義務教育の最後の3年間を担う学校であり、わたしたちの時代の中学校とは性格を全く異にしている。

  旧制度の学校の卒業者は、すでに70歳半ばになっている。高等学校という名で、現在の高等学校よりもむしろ旧制の高等学校を思い浮かべる人は、すでに少数派になった。ほとんどの国民にとって、高等学校とは戦後の学制改革で生まれた現在の高等学校である。その人たちにとって、旧制度の学校のことを想像するのさえ難しいことである。

  こうした時代になって、旧制中学での学校生活の物語に、人々はどれだけの関心を持ってくれるのだろうか。

  それが波乱万丈の物語であるならば、関心を引くこともできよう。全国の中には、動員中に生徒から死傷者を出した学校も多々あったことを聞いている。わたしたちも動員中工場が機銃掃射を受けたことはあったが、負傷者はいなかった。空襲で焼け出される経験ならば、身近なわたしたちの一級下の学年も経験している。しかしわたしたちには、そのような経験すらなかった。機械作業による事故もなかった。

  16歳くらいであの過酷な動員生活によく耐えていたとは思うが、犠牲者がないだけに、今ではそれが長い長い修学旅行であったかのようにさえ思える。早くから軍関係に進んだ者たちも、間一髪で戦地に出るまでには至らず、敗戦と同時に故郷に帰還した。

  音楽の増成先生を除くと、シベリアに抑留された目時先生をはじめとして、先生方もご無事であった。戦時中としては、わたしたちは悲しい思い出をほとんど伴わない学校生活を送っていたといえるであろう。

  しかしわたしたちの誰でもが、すでに低学年のときから近親者の応召などを通して戦争を身近に感じ、高学年になるにつれて、自らの生命の終わりが間近いことを、うすうすながら感じるようになっていたにちがいない。生命の有限であることを、こんな年ごろから考えねばならなかった点は、現在との大きな違いであろう。

  しかし若いわたしたちは、はつらつとしていた。起伏の少ないわたしたちの学校生活ではあったが、それをつぶさに記録した今回の連載が、戦時下という特異な時代に日本全国の中学生たちが送っていた学校生活の一例として、戦後の世代の方々の関心を引くとともに、一編の歴史として、母校のみならず日本教育史にささやかな寄与のできることを、心から願ってやまない。(おわり)  


 

              前へ   目次へ  次へ