| 戦時下の盛岡中学 7 増田眞郎(昭和20年卒業生) | ||||||
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忘れ得ぬ先生方 教室で先生の癖を楽しむことは生徒の特権であり、教わった内容よりも永く思い出として残るものである。印象は個人的なものであり、したがって私たちが教えていただいた先生方の印象を書きしるすとなると、同期生全員にそれを聞かねばならない。 そのような楽しい印象と離れて、ぜひしるしておきたい三つの思い出から始めよう。 その第一は、三年生三学期の歴史の時間のことである。担当は高橋元昭先生であった。歴史は一年生で国史(今様にいえば日本史)、二年生から三年生にかけて東洋史、三年生の途中から西洋史を習い、三年生の三学期に中世まで進んでいた。
国史は最終学年で再び習うのが定石であったが、私たちの終業年限が四年間に短縮されたので、三年三学期から西洋史を打ち切って国史をやろうということになった。 当時の国史の本は、天孫降臨や神武天皇の話から始まっており、私は「神国日本」の生誕の物語を、高橋先生の名調子で聞くのを楽しみにしていた。 ところが、国史の授業の始めに、先生はさりげなく「国史の授業は歴史としてはっきりしている大化改新のところから始めます」と言われて、そこから話を始められた。わたしはがっかりして、それ以前の部分のノートを自分で作り、そのあとに先生の話のノートを接続した。 先生はいつも分厚い本やノートを重そうにかかえて教室に入って来られ、歴史を暗記物としてではなく、中学生として理解しえる最大限に学問的に教えてくださったため、東洋史も面白かったし、国史も荘園制度や武士の勃興のあたりは今も忘れぬほどわたしにとっては印象が深い。 しかし、当時軍国主義に先導されたゆがめられた歴史教育が普通であった中で、この一言を聞いた中学生は、果たして他にあったであろうか。戦後になって、史実に忠実となった日本史の本をひもとくたびに、あの日の教室をわたしはいつも思い出すのである。 思い出の第二は、二年生(昭和十七年度)のいつのことであったか、地理の時間のことである。当時、地理の担当は岡庭秀男先生であった。先生もなかなか雄弁で、午後の授業であっても眠気をさますに十分であった。 多分日本地理であったのだろう、話の前後のことは全く覚えていないが、「沖縄は太平洋の要なのです。もしここを日本が占領されるようなことがあれば、日本は負けです」と言われたのである。昭和二十年の七月、沖縄本島が完全に米国の制圧下に入ったとき、わたしは先生の言葉を信じまいとしたが、やはり正しかった。 復帰前の沖縄を訪れて巨大な米軍基地を見て来たときも、あの時聞いた先生の話が私の脳裏を去らなかった。先生の地理の担当は、二年生の二学期末で終わっている。 第三の思い出は、昭和十八年五月十九日に行われた、当時配属将校であった石川大尉の講演である。石川教官は、その前後盛中に配属されていた軍人の中では、最も人間味のある。いってみれば教師的面をもっている人に思えた。 その日の講演は五時限目に始まり三時間半に及ぶものであったが、教官が身をもって体験されたノモンハン事件の真相を、発端・特長・第一次戦闘・第二次戦闘・教訓と分けて話された。そしてその中で「大和魂だけでは駄目だ、それに伴う旺盛な体力と知力と新科学兵器がなければならぬ」と力説されたのである。 当時は大和魂のみが唯一であるが如く叫ばれていた。この二年後に、本土決戦に備え、国民一人一人は竹槍をもって戦えと指導者は国民に号令した。兵器の発達は考えものであるが、とにかく日本は科学兵器でも遅れをとって敗れた。石川大尉は再び前線に赴くため、昭和十九年四月二十四日に離盛した。(つづく) |
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