戦時下の盛岡中学   8    増田眞郎(昭和20年卒業生)

 戦場から戻らなかった増成先生

  戦争は幾多の痛ましい犠牲者を出した。私たちが伝え聞いている限りでは、私たちが教わった先生方の中では、ただ一人音楽の増成政直先生が戦場から戻られなかったという。

 先生は私たちが1年生のときの12月に、物象担当の佐藤孝一先生と一緒に着任されたと記憶している。佐藤先生は東京高師(現在の筑波大)を、また増成先生は上野の音楽学校(現在の東京芸大)を卒業されたばかりであったと思う。

 佐藤先生は背が高く、増成先生は小柄で、お二人が新任式のとき、西控所に並んだ全校生徒の前で壇上に登っていかれる姿は、何となく滑稽であり、今でもその有様が思い出される。

 増成先生は蝶ネクタイをしめて、小意気であったから、ばんからな盛中にはにつかぬ不思議な存在であった。早速先生は獰猛な上級生の餌食にされた。

 先生は「盛中の校歌の曲は軍艦マーチなのに、君たちの歌っているのを聞くと、一部分それと違っている。正しく歌うとこうなるのだ」と、音楽の時間に軍艦マーチの曲通りに校歌を歌って私たちを指導された。

 それを伝え聞いた当時の4年生の一団が、次の音楽の時間に音楽教室になだれこんできて、すさまじい勢いで先生を罵倒した。当時の5年生も私たちには怖かったが、4年生はむしろ気味の悪い学年であった。そのため、一体どうなってしまうのだろうと、私たちははらはらして見守っていたが、蝶ネクタイの小さな先生は、4年生の巨漢を見据えながら、「絶対に君たちは間違っている」と言い切り続けたのである。

 音楽といっても、今のように楽典や合唱曲は習わず、せいぜい基本的な和声程度を教わった程度で、そのほか何をやったかも覚えていない。日時は明確でないが、先生の入隊の壮行式のとき、小さい身体を震わせて、段上で出陣の決意を述べられた姿が、わずかに私の記憶にある。真面目な先生であった。

 今、私の手元には、1年生の3学期に、先生が出された宿題の作文「大東亜戦争と音楽」が残っている。

 物理・化学は昭和17年私たちが2年生になったときから、物象という名前に変わり、3年生になると、それぞれ物象一類・物象二類とよばれた。

 佐藤孝一先生は、3年生の秋9月に入隊されるまで、2年生の物象、3年生の物象一類を担当され、2年のときは丁組の、また3年のときも入隊されるまでは、担任をもたれていた。

 年齢からすると、私たちの6・7歳上だったから、ちょっと離れた兄貴のようなもので、親しみを覚えた。大層歯切れがよく話の内容も整理されていたので、分かり易かった。

 物象は3年のときから国定教科書になったが、創造力を養うなどという結構なうたい文句がいたずらに先行し、既成の知識を要領よく吸収できるようなものではなく、私にはどう使えばよいのか分からなかった。

 物象は、1・2年で鈴木久次先生、2年以降で豊田満・吉田茂夫・瀬川経郎の諸先生も担当されたが、3年生以降先生の不足で授業の行われなかったことが多く、進度は極端に遅れた。

 またこのような教科書では、先生方の努力の甲斐もなく、私たちの物理・化学の学力は、どの科目よりも貧しいまま卒業する羽目となった。

 瀬川先生は、平塚動員の直前まで、物象の遅れをとり戻すために、空き時間を利用しては精力的に補講を重ねられた。

 生物という科目の名称も2年生からのもので、それまでは動物・植物といった名前の教科書であったが、3年生から生物という名の国定教科書となった。しかし、担当の小山眞一郎先生は、人ぞ知る盛中の名物先生だったから、教科書などはそっちのけで、マイペースの授業だった。高松池にボートを浮かべてアオミドロの採集に行って、帰ってそれを材料にして授業を受けたり、とにかく、まとまった生物学の知識をもつことはなかったが、断片的に生物学の面白さを教えてくださったように思う。

 毎年夏休み始めに行われた薬草採集のとき、先生の博学に驚かされたものである。農園の作業は先生の指導下にあったといってよいであろう。平塚動員直前の4年生9月の生物の時間に、「決戦下の食物について」という小山先生の名講義があったと記録しているが、内容については覚えがない。

 なお、3年生のときの生物は、小山先生ではなく、剣道の安藤五郎先生が担当された。既に先生の数が絶対的に不足していたのである。(つづく)


  ■コラム「小山眞一郎先生のこと」

 1年生では「博物」の中身は生物。2年生では生物を実際に現物に触れたり育てたり、観察しての学習が多かったから、いつまでも印象に残っている。

  夏、冬の長期休業(鍛錬期間と改称されたが)での宿題も振るっていた。
  夏、猛暑の中で、数人の仲間で調べたのが「馬の歩行」。4本の脚をどの順に踏み出すかを調べる。これは簡単なようで難しい。当時は馬車が街の中をよく歩いていたから、それを対象にした。まず係分担を決め、脚に番号を付け、その具合に報告。それを聞いて記録する係。間違いがないか、チェックする係、何回かやってみて歩行中の把握は容易でないと分かり、停止状態から始めることにした。本町通の真ん中で地べたにあぐらをかいて、大汗をかきかき奮闘した。ずっと馬車について歩き、馬が脱糞(ふん)しそうになったら「それ」と作業にかかるのだった。

  そのほか、増田氏も書いている足跡調べ。これは寒さの中の作業。観武ケ原まで出掛けて、がちんと凍った握り飯をかじりながらの奮闘だった。おかげでウサギの本当の進行方向が分かった貴重な体験。また、学校ではヤギやウサギも飼っていたから、「ヤギの習性」についての討論をさせられたこともある。

  どうしてヤギは紙を食うのか、高いところが好きなのか、首のプラプラの役割は、などいろいろ出たが分からずじまい。困り果てて先生に聞いたら、先生はからからと笑って「ヤギさ聞いてみろ」ときた。あの時はその態度に腹を立てたものだが、今考えるとあれが正解。結論よりも考察や討論の課程が学習だったのだと思う。

  こんな教育、今時やっている暇がなさそうなのは寂しいし、今の生徒が気の毒だ。(佐藤洸) 


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