| 戦時下の盛岡中学 9 増田眞郎(昭和20年卒業生) | ||||||
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忘れ得ぬ先生方 百岡先生 教科書は2年生までは従来の検定教科書で、代数は掛谷宗一監修のもの、幾何は竹内端三監修のもので、当時の中学校教科書として、まずは代表的なものであったろう。 当時の数学教育は現在とはかなり違っていて、古色ゆかしいものであったが、数学自身が古色ゆかしい学問なので、何を習っていても、また題材の選択が断片的でも、結構あとで役に立つものなので、卒業後も特に困ったという印象はない。
しかし、3年生以降に使われた国定教科書は、やはりあまり面白くなかった。ただ従来五年間で教えていた内容を四年間に圧縮する形であったから、それ以前の学年よりも早く三角関数や対数に入っていた。 戦時下らしく、計算図表とか機構学めいた問題がかなりあった。数値計算のときの誤差評価もかなり重視され、実験式なども取り扱われていた。ピタゴラスの定理が三平方の定理とよばれたのもこの国定教科書においてであった。 当時片仮名書きの外来語は敵性語とみなされ、それを国語表示に改めることが盛んに行われていた。現在の数学教育との根本的な違いは、関数概念がほとんど入っていないことである。幾何では軌跡や作図問題がなくなって、解析幾何が早くから入ってきたのもこの国定教科書の特長といえるだろう。これは助かった。 4年生の授業は、等差・等比級数のところまでは完全に終わっているが、これは教科書ではなく先生のプリントによっている。あるいは教科書が手に入らなかったのかもしれない。 3・4年生のときは、年度始めに教科書がそろわず、4年生のときはそれが著しかった形跡がある。このあと、区分求積という題目に入りかけたところで、四年生の数学の授業は打ち切られ、動員になっている。 数学は1年生のときは堀川英吉先生、2年生のときは中村健三・小野寺秀国・斎藤富夫先生、三年生のときは古館福次郎・中村健三先生、四年生のときは高田秀次先生に習っている。 斎藤先生は公民の先生だったが、2年生の始めに、ピンチヒッターとして暫くの間幾何を教えられた。前にも記したように、2年生になった当初は、先生がいないため、数学の授業のない状態が続いていた。 堀川先生の授業は、中学に入るとこんな立派な先生に習えるのかと感じさせるようなものであった。算術から代数への移行を、よく教えてくださったと思う。生徒を叱ることもあったが、すぐに笑顔にもどって授業を進められた。 これに反し、高田先生は大変にこわい先生で、勉強してこない者は容赦なくビンタをくった。指されても分からず、答に窮しているときも同様であった。しかし授業の内容は文句の言いようがなく、中学もいよいよ高学年になったという印象を抱かせるに十分なものをもっていたと思う。叱られないように、戦々恐々として勉強したものである。 中村健三先生は若く熱血漢で、よく努力するよう私たちを激励した。時には、休日の朝、有志を城南小学校に集めて体操をし、そのご護国神社までかけ足をして、境内で盛中をもっともっと良い学校にしようと、情熱を傾けて話をされたこともあった。大変ていねいな授業で、くわし過ぎると感じることもあった。 小野寺先生は長身で、ぼうようとした感じの方であった。特に、エピソード的な記憶はない。古館先生は、3年生のとき、数学好きの者を集めて数学の会を開かれたが、とつとつとした話しぶりの、おだやかな先生であった。対称式、交代式、また関数概念やその記号を、私はこの会において古館先生から初めて習ったことを覚えている。 英語は村井佐助・木山実・石川浩・百岡胤正・石橋哲郎の諸先生が担当された。教科書としては、正読本にはコンパニオン・リーダーズというのが四年間使われた。3年生のときは副読本があり、ロビンフッドであったと思う。 4年生になって英語の授業時間が結果的にはかなり減ったが、学校の方針としては、敵性外国語である英語教育削減の当時の全国的風潮に逆らって、その充実をはかったということで、実際3年生までは英語が軽視されているという印象を全くもたなかった。 4年生という英語の力が一番のびる時期に、動員等の影響をもろに受けて、単語力にいたってはまことに貧しい状態で卒業せざるをえなかったが、授業はどの先生のものもそれぞれに特長があり、面白かった。 木山先生は1・2・3年のとき担任もされた。ちょびひげをはやし小柄で、外見・話術ともに特長があったので、叱られてもなんとなくユーモラスで、私たちの誰もがモクサンの愛称のもとに、先生にはいろいろの親しい思い出をもっているに違いない。 村井先生には1年生から2年生の10月まで教わっている。口は悪かったが親切に教えていただいたという印象が強い。石川先生は、リーダーのすべての文章を細かく文法的に解説され、それをていねいに黒板に書かれた。紳士風の端然とした授業振りで、時間中雑談らしいものを一度も聞かなかったが、充実した授業であった。 一度だけだったが、教室に蓄音機を持ち込んで、英会話のレコードを聞かせてくださった。当時会話のレコードは珍しいものであった。先生は長く盛中に在職されたので、卒業後見知らぬ先生ばかりとなった母校の職員室でもお会いすることができた。 百岡先生は外国語が好きでたまらない、外国語の塊りではないかという印象であった。フランス語の方がむしろ専門ということで、畏敬の念をもったものである。発音は上手だった。 文法的な解説などは余りされなかったが、文章を沢山読んでそれを暗記すれば、英作文も自然に上手になるということは、先生から教わったことである。皆ができないと、不思議そうな顔をされた。叱られることは全くなかった。 石橋先生の発音はユニークであり、私たちはよくその口真似をして楽しんだ。先生には主に3年生のとき教えていただいた。また動員で平塚に行ってからも当地でお世話になった。先生の授業は淡々としていたので、強烈な印象というものはないが、大学を卒業した頃不景気で職が無く苦労された話などを聞いたことを覚えている。(つづく) |
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