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■小・岩・井の三人による農場設立
井上勝は長州藩士で、幕末、21歳のとき、伊藤博文、井上馨らとイギリスに密航した5人の仲間の一人である。伊藤らは、四国連合艦隊による下関砲撃の報に接してすぐに帰国の途についたが、井上はロンドン大学に残って勉学を続け明治元年に帰国した。直ちに新政府に出任し、日本の鉄道の敷設を進言した。明治3年の新橋〜横浜間の事始めのときから参画し、鉄道頭兼鉱山頭に就任した。
その後、自らも東奔西走し、京都〜大津間の逢坂山随道の難工事の現場の指揮監督に当たるなど身をていして鉄道建設に尽力した。明治20年には功労によって子爵を受けられ、今日でも「鉄道の父」として崇拝され、東京駅の前に北西に向かって銅像が立っている。小生の独断ではあるが、東北、岩手山、小岩井農場に向かって、ありし日の思いをめぐらしているのでは…と思っている。
岩崎弥之助は、三菱の創始者岩崎弥太郎の実弟で、三菱創業のときから兄を助けた。明治18年、弥太郎が病没後はその業を継いで社長となり、明治26年、弥太郎の長男久弥に社長を譲るまでの9年間、三菱の総帥であった。岩崎弥太郎は土佐を出て、大阪・淀川の改良工事などで身を立て今日の三菱の基礎を築いた。
小野義真は、三菱の創始者岩崎弥太郎と同郷の土佐、高知県の生まれで、藩政時代には郷里の宿毛村の庄屋を務めていた。明治維新ののち官途につき、大蔵少丞、土木頭などを歴任し、明治7年には官を退いたが、弥太郎の知遇を得、しばしばその代理役として各方面の重要な交渉に当たっている。明治14年の日本鉄道会社設立に当たっては、弥太郎の個人的代表として参画、発起人に名を連ねた。のちに、社長を務め、明治38年に没した。
■小岩井農場開設
井上勝鉄道局長官が網張温泉を視察してから約一年半後、明治22(1889)年12月部下に命じて岩手山南ろくの高原の実地測量が始められた。一帯は一面の積雪で鉄道工事は休眠していたが、部下たちは早川組の協力を得て三角測量から平面および高低測量を遂行、詳細な図面と調書を作製して井上勝に提出した。
しかし、農場開設のもくろみは、そうやすやすと進んだわけではなかった。井上が、実地測量をさせた時期より早く、すなわちその年の春には、すでに地元の農民たちによる騒ぎが持ち上がっていた。この原野は官有地ではあったが、旧藩時代から伝統的に近傍11カ村3千余戸の入会地、主に馬のまぐさ場として利用されていた。
井上は、石井知事とかけあうなどしたが、農民の不安や村民有志の集会、反発などが活発になり、県議会議長の上田農夫の仲介・調停などで村民たちとの話し合いが進められた。(大内豊)
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