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■旭川の兵隊上りの男
大正8年7月19日未明、岩手山ろくの人家もまばらな柳沢で殺人未遂という凶悪事件が発生しました。その被害者は賢治も知っていた旅館のおかみさんだったから、さぞや衝撃だったのでしょう。
恒例により7月初めごろより父母は保養のため西鉛温泉に逗(とう)留中で、賢治はひとり質屋の店番をしていた朝にセンセーショナルな記事が飛び込んできたのです。
「滝沢の女房殺し」の2段見出しの大活字は、なじまない家業にうじうじする賢治の暗い心にさく裂した稲妻のせん光だったのでしょう。
記事は11年前に情婦の夫を殺害した前科一犯の犯人像も紹介していました。この事件から3カ月も過ぎた秋ごろ、賢治は山梨の親友保阪嘉内にかなり自虐にみちた手紙を発信しています。
「私は実はならずもの、ごろつき、さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯、弱むしのいくぢなし、ずるもの、わるもの 偽善会々長です…監獄ももう遠くありません」
これは質屋の店番をする無職、無宿の身の上を自ちょうし、抑圧された心理から生ずる犯行のさまを洗いざらい羅列したものです。この文脈から察知されるのは、「滝沢の女房殺し」事件から受けた心理的外傷の転移ではないでしょうか。
賢治の深層にはこの事件の影が消えずに記憶されて、この事件の残像が大正9年9月に短編「柳沢」、10年の童話「葡萄水」「かしはばやしの夜」をうながし、13年の詩篇〔うとうとするとひやりとくる〕とその下書稿「柏林のピクニック」「初冬幻想」「霜林幻想」〔よしそんならこんどは天狗問答で行こう〕、そして昭和8年ごろの文語詩稿〔そのときに酒代つくると〕その下書稿「柳沢」〔野馬盗りて畑荒らさしめ〕や「秘境」につながっていくのです。
思い返すと大正6年10月に柳沢の旅館(「岩鷲ホテル」)で一夜体験した何でもないエピソードが、8年9月の「滝沢の女房殺し」事件によって虚構の世界へ賢治を引き入れ、オリジナルな登場人物を創作することになりました。
それが「首に鬱紺(うこん)を巻きつけた旭川の兵隊上り」の男でした。短編「柳沢」に登場するこの男の素姓を、滝沢御料地の労役人夫となって手間賃を稼ぐ柳近辺の貧しい農民で、秋には山ぶどうを採りぶどう酒の密造をする好人物のキャラクターとして描かれたのです。
■下書稿「霜林幻想」の抜粋
(〔うとうとするとひやりとくる〕の下書稿)
……いゝか、この野原から抜け出してはだめだぞ…
……いゝとも さあ出した…
……発句の方はきみがやれ…
……霜いくたび兎の糞も枯れにけり…
……あたまから無調法だな えゝと
また、演習の沙汰ぞあるらん…
……山葡萄人にしられず濾し了へて…
……なんだ野原から出たんではないか…
……あそこは立派な裾野のうちさ…
……さうか では
母はあやぶむ朝の麦ふみ か…
……かうなるとあの部落を抜け難いな
斧劈皺雪置く山となりにけり…
……うこんのきれをのどに巻くらん…
……御料地のさきだち二日たのまれて…
……あわれはかなき虫とわれかな…
(5行略)
……柏の樹みなかさかさと鳴りそめて…
……をとめは遠く去りにけるかな…
(以下略)
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