|
■井上勝氏から岩崎久弥氏へ経営移管
明治28年ころ、盛岡駅前に清風館という旅館があり、そこは農場の従業員などが利用したところだったと言われている。採算がとても合わなかったものか、明治31年をもって農場の経営を断念し、その経営は岩崎家に引き継がれた。それらの経過についてはあまり資料が残されていないが、井上勝は、明治26年(1893)に鉄道庁を退いたが、新しい鉄道関連事業のために極めて多忙で、農場経営に心を配る余裕がほとんど持たなかった。
現地にあって、事業を差配したのは有福五郎吉であった。明治32年の岩崎家への引継ぎ書によれば、農場職員として、有福、月給20円、を筆頭に、桜庭寅吉、釜沢善八の2人ともに月給20円。職員はこの3人で、その下に、常傭人として11人、日当35銭のもの1人、30銭のもの1人、25銭のもの6人、22銭のもの1人、20銭のもの2人となっている。
明治初年、日本は、「文明開化」「富国強兵」の掛け声も華々しく、西欧に追いつくべく、封建的諸制度の解体、再編におわれ、諸産業の発展は特に見るべきものはなかった。産業革命の核心は、綿織物、養蚕による生糸の生産、米、茶、水産物などが輸出される程度に過ぎなかった。
産業革命のひとつの指標として交通運輸の近代化として、鉄道の幹線を中心とした東西への延伸が、明治13年(1880)2月から始められたが、日本の財政は厳しく、明治14年2月に発足したのが日本鉄道会社であった。この会社が、東京〜青森間などの鉄道網の敷設を首唱発起人16名で始めた。このときの筆頭が右大臣岩倉具視であった。
鉄道局長官井上勝が盛岡の視察に赴いた明治21年6月には、盛岡〜青森間の工事はすでに着工していた。明治21年5月着工であった。
井上勝が鉄道技師、技術者であったが、農牧の事業に関しては全く知識も経験も持ち合わせていなかった。彼が県庁に提出した「官地拝借顧」に添付された「事業方法書」、今日の事業計画書の中にでも、「願人自身は牧畜に熱心なるもいまだ実業に就きたることなし」と正直に告白している。ただ、横浜の貿易商で、手広く事業をしていた高島嘉右衛門ら、学識経験者などの助けを借りるなどして提案したものと推量されるものがある。明治24年から27年までの開墾のありさまの一部が、「開墾方案」と題する書類として、場主子爵井上勝代理、有福五郎吉の名で記述され、明治28年春(1895)京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品されている。まさに、土地の開墾、施肥、防風林の苗木植栽、桑その他の苗木植栽、薄痩の荒地にまず鍬(くわ)をいれ、犂(すき)を入れ、肥料を入れるなどの苦労が記されている。(大内豊)
|