2005年 11月 1日 (火) 

       

■ 夭折した音楽の秀才 藤原広治の業績を冊子に

 宮沢賢治の親友藤原嘉藤治の長兄で岩手師範学校の秀才といわれた藤原広治の人と業績を紹介する「地麗人傑」が出版された。広治は音楽的才能に恵まれたが25歳の若さで亡くなった。作詞作曲した水分小の旧校歌は新しい校歌が作られた今も歌い続けられ親しまれている。同校の卒業生たちで旧校歌の記念碑を建立しようという活動も進んでいる。著者は紫波町日詰の教諭佐藤利夫さん。「地区民でも知っている人が少ない広治を紹介したい」と話している。

 旧水分村の広報誌「吾友(ごゆう)」に掲載された広治の寄稿を参考にたどった。

  広治は、旧水分村(現紫波町水分地区)の富農で村の収入役を務めた藤原嘉四郎の長男として1888年に生まれた。3男の嘉藤治が生まれた96年ころ家産が傾き生活も苦しくなっていった。嘉藤治は矢巾町の菅原家に養子に出された。16歳で母校水分尋常小学校の代用教員となり1年9カ月務めたあと岩手師範学校に入学した。

  師範学校では音楽の天才と呼ばれ、大正4年4月発行の「朔風(さくふう)」は「鋭敏な頭脳をもっている上に指がよく動いた。彼の熱烈な研究と努力は何人も尊敬させた。バイオリンもオルガンも達者であった」と紹介している。嘉藤治にとっても8歳年上の兄はあこがれで音楽的な影響をかなり受けたようだという。

  師範学校を卒業した広治は不動小学校に9カ月、日詰小学校に1年半勤務し、それぞれの学校の校歌を作詞作曲した。1912年8月、3校目に赴任したのが水分尋常小学校だった。

  広治は吾友に数多く寄稿している。ペンネームは藤原柴村。時々の思いを短文や詩などの形で残している。10年5月号には「ああピアノがほしいほしい。ピアノがあったなら何物も用はない。(中略)僕は緑したたるリンゴ畑のなかに小さな音楽堂を建てて一人で一生絶やさない考えだ」とピアノへの強いあこがれを書いている。

  この2年前の「俚謡(くよう)」という短詩は「かさりこそりと落葉が落ちる。踏んで来るのか村男。帰る村里の袖引く野茨(のばら)。早く放せよ日が暮れる」とリズミカルにつづっている。

  水分小に赴任した広治は母校の校歌も作詞作曲した。赴任から病気で倒れるまで4カ月間、教えを受けた細川清さん(故人)は「毎週月曜日400人の全校生徒の朝礼の後、校歌を声高らかに歌い、威勢のよい指揮をとられた。校歌のできたときから音楽は楽しい時間、勉強にも精が出るようになりました」と振り返っている。

  広治は結核にかかり治療のかいなく13年10月29日に25歳の若さで亡くなった。
  「地麗人傑」はA5判51ページ。佐藤さんは関係者に配布後、紫波町水分公民館に残部を寄贈した。同公民館では1部千円で販売し収益金を館の運営費に充てることにしている。問い合わせは同公民館(紫波町小深田69の1、電話019−673−8222)まで。

  佐藤さんら水分小の卒業生は、思い出深い校歌と水分の天才藤原広治への思いを込めた記念碑設置の準備を進めている。碑の大きさは横1・1メートル、縦1メートル。ピアノの形に加工し、旧校歌と広治のピアノへの思いを書いた一文を刻む。





 


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