2006年 4月 30日 (日) 

       

■  〈盛岡百景〉62 材木町裏石組み

     
  町人が私財を投じて築き上げた材木町裏石組  
 
町人が私財を投じて築き上げた材木町裏石組
 
  材木町は古くは岩手町とも柾(こば)町とも呼ばれていた江戸時代からの町人街。今は表通りが商店街の近代化事業で一新され、景観から歴史を感じることは難しい。だが、北上川の川岸に回れば歴史の語りべがいる。それが材木町裏石組と呼ばれる石垣護岸。

  夕顔瀬橋の下流に約360メートル続く石垣護岸は起源がはっきりしていない。石垣自体には江戸末期の割石もあるようだが、過去の聞き取り調査などから、積まれたのは明治以降だとみられている。

  石組みは連続しているが、壁面は凹凸があったり高さが不ぞろいだったり石積みの構造も違っていたり。国や地方自治体の公共工事のような設計の統一性はない。中の橋付近の中津川右岸の石垣護岸も統一性がある。材木町の裏がこのようになったのは、通りの町人がそれぞれの裏手を護岸工事した民営事業だった経緯による。年代や投入する資金の違いなどが表れた。

  しかし、石垣は花こう岩を主体に似たような色合いの安山岩、石灰粗面岩が使われ、構造も間知石(けんちいし)の谷積みや乱積みが主体のため、壁面から受ける印象に違和感はない。川岸と家を行き来するための石段が十数カ所設けられ、変化に富んだ壁面が、むしろ景観上の持ち味を出している。

  盛岡は盛岡城跡の石垣に対する高い評価に見られるように、近郊近在の良質な産出石が景観づくりの重要な要素になってきた石の文化を持つ街と言える。その歴史を伝えるのが材木町裏石組をはじめ市内のところどころで見られる石垣護岸だ。かつて中津川の護岸に打ちっ放しのコンクリート壁が採用された際には市民の間で景観論議が起きたという。盛岡人の遺伝子に石の文化が継承されているからだったのだろうか。

  河川管理の国土交通省は近年、裏石組の前をはじめ、親水性を高めようと川岸に散策路を整備している。ここでは石垣護岸との調和を図るデザインで、施工直後は真新しさに石組みから浮いていた感もあったが、今はなじんだ。石組みは歳月を積み、植物の根が張ったり冬期間の凍害で、同省が時折、修復工事をしている。

  歴史を感じる石組みの一方で対岸から見る材木町は中高層のマンションなどが建ち、護岸した町人の気持ちを想像しにくくなった。景観の評価は分かれるだろうが、景観が更新され続けるからこそ、修復しながら石組みを長く残してほしいものだ。

(井上忠晴記者)

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