2006年 7月31日 (月) 

       

■  〈盛岡百景〉75 岩山からの市街地と岩手山 

     
  鹿島精一記念展望台から夕暮れ時に眺める盛岡の街と岩手山  
 
鹿島精一記念展望台から夕暮れ時に眺める盛岡の街と岩手山
 
  盛岡の市街地を眺望できる格好の場所。それが岩山だ。岩手山そして秋田駒ヶ岳をはじめとした奥羽山系の山並み見渡せる。そんな眺望スポットに1962年、展望台が建てられた。鹿島精一記念展望台といい、盛岡出身の実業家の名が冠されている。
  精一は1875(明治8)年、盛岡・上田小路で葛西晴寧、すえの長男として誕生したが、晴寧が翌年他界。すえは子供2人と実家の出渕家に戻り、出渕家の世話になった。精一は成績優秀な少年として成長した。
  当時、東北線の鉄道敷設が北上し、1887年には岩手で着工。盛岡中心の工区を請け負った鹿島組の盛岡の出張所が出渕家の隣に置かれた。たびたび盛岡を訪れた組長鹿島岩蔵は精一と姉はなの評判を耳にする。盛岡中学で常にトップの成績だった精一の進学が難しくなった折、岩蔵の学資援助で第一高等中学に合格し進学。東京帝大在学中に岩蔵の娘糸子と婚約した。

  卒業後は結婚式を挙げ鹿島家に入り副組長に就き、岩蔵の死去で精一は38歳で組長に就任。株式会社化など今日の鹿島建設につながる手腕を発揮した。1経営者にとどまらず土木建築業界のリーダーとして活躍した。

  展望台は長女卯女と結婚し、当時会長だった守之助から盛岡市に寄贈された。精一の生家は盛岡に残っていないが、精一が愛した古里に記念のものをと発案し、孫に当たる鹿島昭一が設計した。精一は今も古里の行方を見守っている。

  展望台の階段を登っていくと精一の銅像、その脇に昭一の節句を祝って31年5月、家族がしたためた寄せ書きの銘板がある。精一の俳句、糸子の和歌、卯女の絵で構成される。俳号が一青という精一の句は「吾庭のあやめ菖蒲やつぎつぎに」。

  精一を顕彰する展示コーナーには46年11月の絶筆とされる「水流仁急境常静」が記されている。中国の洪応明が著した明代の哲学書「菜根譚」所収の処世訓の一節で「水が激しく流れていても、辺りは常に静か」であり、花がしきりに落ちるが、それを眺めている心は自然にのどかになると続き、常にこのような気持ちで事に対処できれば心身ともにのびのびすることだろうと説く。

  高さが樹冠を越える展望台の上では風を強く感じる。夕暮れ時、見渡す盛岡の街では人がせわしく動いているはずだが、眺める景色からは少しも感じられない。ここではのどかに1日が暮れていく。(井上忠晴記者)


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