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1989年に選定された盛岡百景を追いかけてきたが、最も変化したのはこの旧国鉄盛岡工場だろう。いや、変化ではなく消滅したというべきだ。
明治時代、近代化を進める日本では全国に鉄道網が敷かれていった。日本鉄道(当時)の上野〜盛岡間が開通したのは1890年(明治23年)11月1日。盛岡駅は当時の盛岡の都心部から離れた雫石川近くに置かれた。日本鉄道盛岡工場は同社初の車両修繕工場として翌年8月9日、駅に隣接して設置された。
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マリオス(手前)、アイーナ(奥)をはじめ現代ビルの立つ街に生まれ変わった旧国鉄盛岡工場跡地 |
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国有化されてからも国鉄盛岡工場として操業。車両の修繕や改造、検修などの仕事に多くの人がひたいに汗した。工場は85年12月に廃止となり、94年間の歴史に終幕。国鉄は分割・民営化で87年4月にJR各社が発足した。分割・民営化の大きな目的の一つは巨額に膨らんだ債務の解消。国鉄清算事業団が所有地の売却処分に当たった。
国鉄盛岡工場跡地も処分対象となった。盛岡駅近接地に大きな遊休地が生まれるため、盛岡市では再開発の構想を打ち出す。跡地周辺を含めた35・6ヘクタールで盛岡駅西口地区土地区画整理事業を計画。93年に事業計画が決まった。開発地は市が描く既存市街地、盛南開発地区との3地区が連なる軸状都心構想の要に位置付けられる。
西口の街はまだ開発中。大区画に空地も目立ち成長途上だ。現段階では一般住宅のほかはマリオスやアイーナ、民間社屋、学校、マンションが中心で、商業施設はまだ少ない。そのせいで、既存商業地域やロードサイドのように派手な看板などもなく、スマートでクールな印象を与えている。
再開発前の工場時代は今とは正反対に、油のにおいがそこかしこに漂っていたに違いない。工場廃止のときも開設時に建てられた建物がまだ残り、その代表格が赤れんが造りの壁に木造小屋組の切妻屋根を載せた工場棟だった。れんがは地元産で安倍館辺りの窯でも焼かれたらしい。鉄道庁官営の設計施工で、英国人がかかわったという。れんがはイギリス積みだった。
国鉄清算事業団による財産処分が進められる中、れんがの建物の保存活用を望む声が上がったが、実現はならなかった。マリオスのアトリウムでこのれんがも使って復元した工場正面の外壁がある。しかし、街の景観に影響するものではなく、残り香も消えて、西口は新生の街となっている。
(井上忠晴記者)
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