2009年 1月 13日 (火)

       

■  〈啄木の短歌、賢治の短歌〉114 望月善次 人工的作物としての標準語

 【啄木の短歌】
  ふるさとの訛なつかし
  停車場の人ごみの中に
  そを聴きにゆく
     〔『一握の砂』199〕

  〔現代語訳〕故郷の訛がなつかしくてたまりません。停車場の人込みの中へ、そのなつかしい訛を聞きに行くのです。
 
  〔評釈〕この人口に膾炙(かいしゃ)した一首は、故郷渋民を歌った『一握の砂』の「煙二」の冒頭歌でもある。故郷への思いを「訛」に象徴させ、しかも在京の話者を暗示させるように「停車場の人ごみ」を配置するところなどココロニクイ。「訛(なまり)」は「言+化(本物でない)」の解字が示すように「正しくない言葉」。しかし、言うまでもなく、言語自身には、本来「正しい、正しくない」は存在していない。「標準語VS方言」などの価値序列を与えているのは政治的意図に基づいた作為である。だから、いわれなく「方言」の側にいる者は、切なくやるせないのである。〔望月善次「(巻頭言)悲しみと誇りと〜宮澤賢治の場合など〜」、『月刊国語教育研究』第四二九号(日本国語教育学会、二〇〇八・一)も参照。〕この訛について、賢治の方は短歌作品には残していない。現在の言語学の成果〔標準語VS方言=ヒフティ・ヒフティ説〕に、啄木や賢治はどう反応するのだろうか。

  (盛岡大学長)

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