2009年 2月 21日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉96 岡澤敏男 ベーリング海域の点景

 ■ベーリング海域の点景

  賢治がベーリングという名を初めて知ったのは盛岡中学時代かも知れない。「よく小使室の大きな囲炉裏辺で新聞や雑誌(冒険世界や探検世界)に読み耽っていた」(加藤謙次郎「宮沢賢治とその周辺」)という好奇心にみち満ちた少年像が浮上するのです。

  どんな興味ある冒険・探検の内容を掲載していたのか。不明ながらスウェーデン人S・ヘディンの「西域探検」やロシア皇帝の命令でデンマーク人の海軍航海司令官V・ベーリングの「カムチャツカ探検」を紹介した記事もあったものでしょう。

  ヘディンは1899年(明治32年)に楼蘭の廃虚を発見、発掘し1907年(明治40年)10月来朝し東京YMCAその他で学術講演をしており、日本ではヘディンの「西域探検」はよく知るところでした。

  しかしベーリングの「カムチャツカ探検」は、江戸時代にあたる18世紀(1733年〜49年約16カ年)のできごとであり、1758年に皇帝に報告されたS・ワクセル(ベーリング総指令の副官)の詳細な手記「ベーリングの大探検」(訳題)が200年近くも秘匿され、公表されたのは1938年(昭和13年)のことというから生前の賢治の目にとどかなかった。

  だが、この遠征に参画したステラーおよびミュラーにより報告書や観察記が1758年ころ公刊されているので、そのダイジェストが雑誌「探検世界」に掲載されていたのかも知れない。ワクワクしながらベーリング海域への旅を夢見る少年賢治のルーツが連想されます。

  なお総指令ベーリングは1741年(寛保元年)12月、ベーリング海の孤島(ベーリング島)で病死したが、この探検によってユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸地ではなく海峡でつながることを初めて明らかにし、この海峡にベーリングの名が顕彰されているのです。

  童話にはベーリング海域の陸生動物リストから氷河鼠と黒狐を載せているが、これは賢治の創作名であるらしい。この地域に生息するネズミ類にはクビワレミング、シベリアレミング、ツンドラハタネズミ、ホソガオハタネズミなどがあり、白い冬毛をもつクビワレミングを氷河鼠に見立てたものでしょう。

  また黒狐は冬は白い毛を生やし、夏が近づくと体毛が黒色や褐色に変わるホッキョクキツネのこととみられる。

  S・ワクセル「ベーリングの大探検」にある〈アオキツネ〉もホッキョクキツネのことでベーリング海の島々に無数のアオギツネがみられたという。

  また童話「猫の事務所」には〈ぜいたく猫〉が氷河鼠を食いにベーリング地方に行く挿話があり、その氷河鼠の産地は「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域」とある。これはロシアの地名をアレンジした賢治の創作地名に間違いない。

  さらに傑作なのはベーリング地方の有力者2名のトバスキー、ゲンゾスキーの名前です。これは明らかに当時岩手師範学校で活躍していた鳥羽源藏先生の名前を二つに分離して創作したものとみられる。

  鳥羽先生は現陸前高田市の小友出身で高等小学校卒ながら博物学を専攻し、特に貝類には30種をこす新種を発見し、「トバマイマイ」という巻貝は先生の名を顕彰した和名といいます。その他「トバ」を冠した昆虫植物名がいくつもあるという、賢治もまた鳥羽先生に敬意をはらいベーリング地方の名士に「トバ」を冠してトバスキー、ゲンゾスキーと言ったものでしょう。

  賢治の関心はまたベーリング海域のラッコ猟にも向けられている。この海域におびただしく生息するラッコ、オットセイ猟を日本政府は奨励し、明治29年に免許を受けた10隻の猟船のなかに岩手県の個人経営船が2隻あったという。

  童話「銀河鉄道の夜」のジョバンニの父はそうしたラッコ猟船に乗って北の海に出かけていたのでしょう。このように、賢治にとってベーリング海域はまさに文学の宝庫だったのです。


 ■「銀河鉄道の夜」のジョバンニの父(抜粋)
 
  ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思ふよ。」
「あゝあたしもさう思ふ。けれどもおまへはどうしてさう思ふの。」
「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「あゝだけどねえ。お父さんは漁に出てゐないかもしれない。」
「きっと出てゐるよ。お父さんが監獄へ入るやうなそんな悪いことをした筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。」
「お父さんはこの次はおまへにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんなぼくにあふとそれを言ふよ。ひやかすやうに言ふんだ。」(以下略)


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