2009年 5月 9日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉107 岡澤敏男 先生の眼はヨハネのごとし

 ■先生の眼はヨハネのごとし

  前回、青柳先生の出身地を鳥取県と誤記しましたが島根県松江市出身と訂正します。盛岡高等農林学校の同窓会名簿から島根県出身者を拾えば農学、林学、獣医学科卒業生が明治39年から明治43年までに7名も在籍している。

  島根県の学生たちにとって盛岡は未開の地ではなかったと思われる。

  明治43年3月、青柳亮が東京外語学校を卒業して盛岡中学校赴任を選択したことも単なる偶然性とは言いきれません。青柳先生は同郷の知人の紹介で盛岡市内に下宿することになり、賢治は英語を学びにその下宿へ伺ったかも知れないのです。

  そこで文語詩「青柳教諭を送る」の第三連に目を向けると、青柳先生が「愛しませるかの女」を捨て「おもはざる軍」に入隊すべき苦衷で頬が〈やつれている〉との叙述は、先生の身辺の事情にかなり密着した表現と推測され、先生と賢治に私的な交流があったことを予想させるフレーズです。先生は来訪した賢治に盛岡中学を10月に辞任することを告げ、前記のような苦しい胸の内をふと漏らしたのではなかろうか。

  さらに詩章を注意すれば賢治がなぜ「かの女」といったのか気になる。「か・の」とは「あの・その」という指示代名詞で「ことさら名を出さずに或事物を指示する語」(広辞苑)だから、賢治はその女性を知っていた可能性があって、その女性に恋心をもつ先生の苦衷を受容したのでしょう。

  もっと推理すれば、その女性とは盛岡の下宿の娘さんであって賢治も面識があったことを指示した詩章とみられる。また先生は明治22年6月生れだから東京外語3年時(明治32年)に満20歳を迎え、その年の秋の徴兵検査に合格し兵役有資格者となったのでしょう。郷里から44年1月に松江連隊入隊すべき通知が届いたので、やむをえず11月14日に退職願を提出し11月16日告別式(離任式)を迎えたのです。

  これが「おもはざる軍に行かん」につながるフレーズとみられ、下宿の娘さんへの淡い恋情を捨て入隊する先生の苦衷を思いやったのです。

  賢治はそんな先生を使徒ヨハネの肖像に重ねたのでしょう。初稿で「きよらかに頬痩せ青み」と表現した気持を最終稿では「痩せて青めるなが頬は/九月の雨に聖くして」と変化させている。

  「きよらかに」から「聖く」へと推敲したのはどういうことか。「聖」の一字が〈宗教的な崇高さを感じさせ、「痩」「青」「雨」と結んで受難者のイメージを与える〉という小沢俊郎氏の指摘にうなずく。それは歌稿「B」の6と7の間に鉛筆で書き込まれたつぎの一首と関係あるとみるからです。
 
  追ひつきおじぎをすれば
  ふりむける
  先生の眼はヨハネのごとし
 
  これは十二使徒のヨハネ像で、有名なチポリ大聖堂のヨハネ画像を思い浮かべたのか。このヨハネ像は、1年生の9月に盛岡中学の英語教師を辞した盛岡受礼教会のタッピング牧師から得られたのかも知れない。わずか8か月の師弟関係だったにもかかわらず、賢治の青柳先生への傾倒ぶりにほとほと圧倒される思いがします。

 ■文語詩「青柳教諭を送る」初稿から最終稿へ
 
  秋雨にしとゞにぬれて
  きよらかに頬痩せ青み
  師はいましこの草原を
  たゞひとりおくれ来ませり
    (初稿・四行三連形の第一連)
 
  痩せて青めるなが頬は
  九月の雨に聖くして
  一すぢ遠きこのみちを
  草穂のけぶりはてもなし
    (最終稿・四行全形)


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