2009年 5月 13日 (水)

       

■ 〈都市の鼓動〜リレーコラム〉41 山添勝 盛岡駅前広場修景について

     
  盛岡駅前広場  
 
盛岡駅前広場
 
  原稿を書くにあたり、記録を見て驚いた。駅前広場修景の作業にかかわり始めたのが昭和55年、広場が完成し新幹線を迎えたのが翌56年である。以来ほぼ30年の時がすでに経過した。時の流れの速さを実感した一瞬である。

  その間広場の周囲の景観は一変した。駅舎そのものも数度の改修を経て中身が一変した。

  新幹線車輌のデザインも素朴なスタイルからドナルドダックのようなこれ以上はないと思われる超流線形に変化した。あまりに未来的で私の好みには合わないけれど…。それらを考えるとなるほど30年の時の流れがやっと納得できる。

  私が駅前広場修景に携わることとなったいきさつは、駅前通り修景の設計に携わった際、駅広について提案もあわせて行ってきたことなどから、当時の盛岡市デザイン委員会の推薦を得たことによる。

  駅前広場修景は盛岡市にとって、新幹線を迎えるための満を持した事業である。市民に、そして盛岡を訪れる人たちに喜ばれる空間をどうしても実現させなければならない。それは事業に関連する盛岡市、そして当時の国鉄にも共通した思いで、度重なる協議は非常に中身の濃いものであったことが思い出される。

  デザイン委員会から与えられたテーマは「水と緑」。盛岡にふさわしい真に単純明快なテーマであった。私はそれに加えて城下町盛岡にふさわしい風格をもつ広場を意識していた。

  サークル型のバスバースを含む広場のアウトラインと広場の正面に人工滝を設置することはすでに決まっており、私の役目はそれらの全てをテーマに沿ってデザインすることであった。

     
  盛岡駅前広場  
 
盛岡駅前広場
 
  中央広場の駅寄りほぼ半分は地下商店街が既存する。したがってその上部をペーブされた広場とし、緑のテーマに沿った植栽ゾーンはそれを避けた位置にまとめてレイアウトした。水を象徴するカスケード(人工滝)は位置が指定されていたが、地下商店街の既存構造の上に設置することからそれとの整合を考慮した検討が必要であった。

  石の彫刻のサケが遡上する中津川のせせらぎを模した水盤を既設の地下柱で支え、その一辺を滝とするデザインが生まれた。

  緑のゾーンは盛岡城址の石垣をモチーフとし、姫神山の子桜石の石組で縁取ることとした。城址の石垣には石を割るためのタガのあとがいたるところに見られ、それがなんともいえない味わいを醸している。広場の石組にはわざわざカッターでそれらしく模様をつけた。職人の手の跡を感じさせたかったのだが、後で不良品を使ったのでは、とクレームがついたのには驚いた。

  広場の照明は一箇所にまとめ、照明塔としてシンボライズする。塔の先端に大小2個ずつの照明BOXを固定した。親子4人の標準家族になぞらえ、この塔を岩手を象徴する「北の家族」とひそかに命名した。

  塔の直下にはそれまでの広場の象徴であった啄木碑を移設し、また岩手を代表する観光地のマップをデザインして広場のアクセントとした。「北の家族」が岩手を明るく照らす、というストーリーである。

  バスバース広場の地下に降りる階段は円錐状の形とし、楕円状の広場にマッチさせ、その天蓋(てんがい)も円形とした。それはあたかも広場に降り立ったUFOに見えるかもしれない。

  階段を降りきったホール空間の壁面は村上善雄氏作のレリーフで構成された。村上さんは建築空間とのバランスを考慮し、みごとな答えを出した。

  バスバース、タクシー乗り場の待合上屋は費用の点からもっとも簡素な形とし、耐候性鋼というメンテナンスのかからない材料で作る。広場全体を構成する他の素材も耐候性鋼、銅、鋳物など出来るだけ耐久性にこだわった。

  全てが完成し、オープニングを迎えた。市長がカスケードのスイッチを押し、滝が一気に流れ出した。集まった人たちが一瞬どよめいた。私はこの広場が皆に受け入れられると確信した。

  30年経過した。さすがに各所に傷みや材料の劣化が目立つ。各種の統一感に欠けたサインが気になる。なかでも広場のシンボルでもある照明塔に取り付けられた電飾用のぶざまなリングはいかがなものか。カスケードの舞台に安易に並ぶ安っぽいプランタン等々、当初の風格ある広場というデザイン概念と少々異なる雰囲気になっていることを残念に感じる。

(建築家)

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