2009年 5月 31日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉43 小川達雄 盛岡の地質調査1

     一、調査を導いた賢治

  −賢治は大正五年、盛岡高等農林二年生 の一学期に、農科二部の仲間たちと盛岡 附近の地質調査をおこない、その報告文 を翌年三月発行の校友会報に発表した−

  その調査をまとめてしまうと、わずかにこれだけのことになってしまうが、しかしよくしらべてみると、じつはこの調査だけに認められる、いくつかの特徴があった。

  それはまず、賢治たちのこの調査は、学校の年間計画に基づいた正規の調査活動ではなく、地質学に対して盛り上がった生徒たちの機運によって実現した、いわば課外活動的なものであった、ということがある。

  寄宿舎で賢治と同室の岩田元兄(賢治の一年下の農科二部生)は、当時の教室の雰囲気について、こう記していた。

  「宮沢さんはよく先生(関教授)になつ
  いてその研究室に出入し、先生の意を汲
  んでは同僚に向かつて『関さんは…』と、
  何気ない態度でよくその意を通じておつ
  た。宮沢さんは自分も、地質学に打込ん
  だが、地質研究のムードは農学二部の全
  体に亘つてもり上り学生の多くはこれに
  関心を持ち多少ともこれを考えないもの
  は無い様になった。」(川原『周辺』)

  課外活動的なもの、というのは、夏休みに入った直後の、賢治の歌からもわかる。
 
   夏きたりて
   人みな去りし寄宿舎を
   めぐる青木に
   あめそゝぎつゝ      三三三
 
  これは調査が終わりになって来た頃の歌であろうが、その調査が学校の課業であったならば、休暇になってすぐ、みな帰省した、ということはなかったはずである。

  また、『農芸化学科の歩み』(大矢教授退官記念事業会)に記された、開校以来の地質調査旅行の中に、賢治たちのこの盛岡地方調査については、なにの記載もなかったが、これもやはり、生徒側の動向に即した、課外活動的な調査であったから、と考えることができる。

  またその次に、この調査の特徴としてあげられるのは、翌年三月の『校友会報』三十三号に、その調査に関する報告文書が発表された、ということである。毎年の会報には、修学旅行あるいは地質巡察旅行の報告が掲載されることはあったものの、生徒の執筆による研究成果の報告は、これが最初のことであった。

  ※この次の三十四号には、賢治と同じク
  ラスの塩井義郎が、土壌関係の論文を発
  表している。前号と併せて、そこには研
  究熱心な関教授の影響がうかがわれる。

  さてその次に、第三の特色としてあげられるのは、その『校友会報』に掲載された、調査報告の内容のことである。それは若い学生のものとは全く思われないほどの、密度の高い、すぐれた観察で満たされていた。次回は、その先頭の〔前書き〕から、ていねいに読んでみることにしたい。

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