2009年 8月 1日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉60 小川達雄 秩父路を行く・上5

    

三、続・荒川の岸辺

  賢治が荒川の断崖に立って詠んだのは、次の歌である。
 
  はる〓〓とこれは秩父の寄居町そら曇れ
  るに毛虫を燃す火。
 
  「はる〓〓と」というところには、ふるさとといまの場所との間の伸縮が感じられる。きのうの熊谷寺でも、敦盛追善の碑に「旅はる〓〓と」と云い、この次の歌でも同様に歌いだしていたから、賢治は旅情というのか、時間の中のさすらいに、折々揺れていたらしい。

  この「はる〓〓と」は、賢治の特徴的な発想であるが、それに引き出された「これは秩父の寄居町」というのは、いま眼前にひろがる、町全体を指した表現であった。「これは」と、しっかり指示しているから、

  〔この対岸の町は、まさしく、来たいと
  願っていた秩父の寄居町〕
  といった、確定する思いであったろう。

  「寄居町」に関しては、賢治は神保博士の秩父地方巡検案内の一文、

  「〜寄居町ノ東端ヨリ荒川ニ下リ両岸ノ
  露頭ヲ検スベシ鉢形ニ至ル渡シ場ノ南岸
  ニハ緑色ナル輝石岩ノ切リ通シアリ風化
  ヲ受クル大ナリ」(『日本地質学』)

  これを思い浮かべていたのであろうか。その「緑色ナル輝石岩」は、いま賢治の足元の断崖を形成していた。

  続いて「毛虫を燃す火」であるが、これの実態については、秩父関係の調査を初めて以来、不明のままであった。しかし幸いにも日詰の郷土史家・内城弘隆氏から、次の解説をいただくことができた。

  「(養蚕をしていた人の話では)桑の木や
  梨の木にたくさんの毛虫が付着した時、 払ったりほろったりして地面に落ちた毛 虫を集めて杉葉などで燃した。」

  賢治の生家では養蚕をしていたので、桑畑に立ちのぼる煙を、すぐさま「毛虫を燃す火」とキャッチしたわけである。いま眼前のこととふるさとのことと、そこにはいささかの隙間もなかった。賢治は、いつもふるさとの心を抱いていた、といえよう。

  一つの歌にも、賢治のありのままの姿が、よく出ていると思う。

 (注 「〓〓」は繰り返し符号)


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