2009年 8月 2日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉61 小川達雄 秩父路を行く・上6

    三、続々・荒川の岸辺

  賢治の作品の根っこは、気づいてみるとたいへんに大きく、賢治自身のいちばん奥底に息づいている。

  前回記した、対岸の寄居町をはるかに望んだ歌には、もともと重大な前置きがあった。それは鉢形城の断崖の上で、関教授が説明したに違いないのであるが、その大要は

  |眼前の寄居町は荒川の流れがつくっ
  た、河岸段丘の上に広がった町で、これ
  は荒川沿いの各地に見られること、こう
  した大地の生い立ちや地殻変動を物語る
  岩石・化石類が、秩父地方には多く分布
  していて、ここは日本地質学発祥の地と
  いわれること|

  こうした、見学旅行の根幹にふれる話であったろうと思う。またその歌をあげると、
 
  はる〓〓とこれは秩父の寄居町そら曇れ
  るに毛虫を燃す火。
 
  「これは」には、指示と驚きとがこもっていて、それを受けるのは「寄居町」であった。ここは「寄居町よ」という、感嘆文の言い切りと見ておきたいが、ここには、〔見たい見たいとやって来た〕、あるいは〔日本地質学発祥の地という秩父の〕、といった、土地を重んずる気持ちがあった。

  そのように解釈して、はじめて
  「これは秩父の寄居町」
  この語句が落ちついてくる、と思う。

  そして、おもしろいのは次のふるさとをしのぶ語句であった。

  「毛虫を燃す火」というのは、賢治も同じ作業をした、養蚕にはつきものの営みを語っている。これは、ふるさとから見た表現であるが、それは同時に、「秩父の寄居町」のアクセントでもあった。

  地質学では日本を代表する秩父に対して、賢治はごくしぜんに、自分のふるさとからの連想を付け加える。その桑畑に立ちのぼる火は、たとえほそぼそとした煙であったにしても、それはやはり、ほかならぬ寄居町の特性を語っていた。

  こうした一連の歌は、山梨の親友・保阪嘉内への二枚目の葉書に記され、賢治はそれをこの翌々日、小鹿野町で投函している。それは旅のさなかの走り書きであってみれば、もともと推敲など、あまりしなかったのであろうが、そうした日常そのまま、むしろ平凡といっていい歌のなかに、じつは賢治のほんとうの原石|対象のたしかな把握、発想のバネにふるさとがあったこと|が、キラリと光っている。それが、こうした作品の根本であろうと思う。

  このことはまた、後で繰り返し、記させていただきたいが、さて前回に続き、今回は寄居町を一望した同じ歌について、解説を重ねることになった。一回で書ききることができず、もっとさらさら流れるように、とは願っているものの、いまはまだ、考え考えの状態である。

  さてこの後、一行は近くの渓谷に向かう。

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