2009年 8月 8日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉120 岡澤敏男 キルギス式の耕地と電話柱

 ■キルギス式の耕地と電話柱

  賢治は本部の前の道を馬車鉄道(馬トロ)のループに沿いながら中丸の耕耘部へ向う踏切まで来ました。

  そのキルギス式の逞しい
  耕地の線が
  ぐらぐらの雲にうかぶこ
  ちら
  みじかい素朴な電話柱が
  右にまがり左へ傾きひど
  く乱れて
  まがり角には一本の青木
   (白樺だらう 楊では
   ない)
  耕耘部へはここから行く
  のが近い
 
  この道は今は県道網張温泉線の広い道路となっているので昔の面影はないが、その当時は馬車幅くらいの農道が馬トロ軌道をクロスして耕耘部方面に通っていました。

  この踏切から左後方に広大な畑(圃地)が目に入ります。この畑は場内で「鶴が台」とよぶ下丸谷地2号畑で、一枚の面積が22町歩(22f)余もあり甲子園の球場部分がすっぽり入るくらいの場内屈指の畑ですから、初めて接した来場者が「ここは満州か?」と連想しても決して不思議でないでしょう。そう連想したのは耕耘部の場員で平成2年10月に95歳で他界された蛯名啓四郎さんの述懐でした。

  農学校を出た蝦名さんは大正6年11月、小岩井農場に就職したいと戸田場長に面接したのち「鶴が台」の畑を見て「いったいここはどこだろう。満州か?トロ線は真直ぐに伸びてその先は畑と同様、どんよりとした雪空に続いて居る。満州かシベリアに来たかと一瞬自己を疑うようであった」と『小岩井会会報』第10号(昭和60年2月発行)に初印象を回想しています。

  賢治もまた鶴が台の広大な畑に圧倒されたのでしょう。西域の歴史文化に関心を持っていた賢治は即座にキルギス・ステップ(草原)を連想したのです。この草原はウラル山脈南麓(ろく)からアルタイ山脈北西麓に至る東西2千`に及ぶ広大な草原地帯なのです。

  この草原を「鶴が台」にイメージしたのはやっぱり賢治ならではの発想といってよい。しかし現在では防風林や森、風物などに遮られ、鶴が台の「耕地の線」が「ぐらぐらの雲にうかぶ」景観をみるのはもはや不可能となっているのです。

  次に賢治が目にしたのは「電話柱」でした。初稿で「一本うで木の電話のはしらが/右にまがり左にまがりひどくふざけて」と描写するほど、丸木の素朴で低い柱だったのでしょう。

  今では電柱に電灯線も電話線も架設しているが、社宅に電灯が点火したのは大正11年9月のことだから、5月時点の電柱には電話線だけが架設された「電話柱」だったわけです。

  盛岡に電話会社が設立されたのは明治41年だが農場の電話架設はそれより早く、明治36年から場内線を開通させ40年には盛岡市内の出張所(茅町)まで架設しています。

  農場の電話は私設電話だったから「電話柱」も自家製で赤松の間伐材を利用したとみられます。それだから真っすぐな間伐材が少なく「右に曲がり左に曲がった」短めな柱だったのでしょう。決して「ふざけて」いたわけでなく、いわば昨今の「エコ」材だったのです。

  そのようなふぞろいの電話柱のおしまいに、馬トロの曲がり角があって「一本の青木」が立っていました。この青木は白樺で、ここからが耕耘部への近道となるのです。

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