2009年 8月 12日 (水)

       

■ 〈日々つれづれ〉29 三浦勲夫 妄想の境

 夏は朝風呂。退職者のぜいたくの一つだ。「なぜ、朝風呂なの?」「走るから」

  「そうです、今朝は6`走りました」「え、無理じゃないの、退職者に?」「ところが習慣ですから。今話題のいわゆるスロー・ジョグで1・5`走ると、これがいい準備運動になるのですよ」

  「でも、人間の心臓は一生の鼓動回数がだいたい決まっているそうです。あまり使いすぎると早死するとか言いますよ」「え、そうなんですか?そういえばスポーツマンでも早死する人が多いみたいだ。これは心配だな」「まあ、あまり激しく使いすぎなければいいのじゃないですか」「なるほど、そんなところかなあ。何事もほどほどに」

  それはそうと、走っていると「無我の境」のこともあれば「妄想の境」のこともある。祖国の終戦も知らずに東南アジアのジャングルで10年も20年も生き抜いた旧日本軍兵士がいた。横井さんや小野田さんだ。あの人たちは、年をとっても一人で山野を駆け巡った。大変な身体能力だ。それに比べれば平坦な道の3`や4`、物の数ではない。

  いや、駆け巡る距離の多寡(たか)ではない。昼の暑さ、夜の暗さ、伝染病、猛獣や有毒生物、食糧確保。話し相手がいない孤独―。それに比べれば現代日本は世界有数の先進文明国といわれる。でも、だから、なんだ?

  現代日本に順応して生き抜くのも並大抵でない。未来がバラ色ならいいのだが。何もせずにバラ色の未来はつかめない。ここは国民一人一人が、手を携えて生き良い社会を作らなければならない。孤独、バラバラでは行き詰まる、息も詰まる。

  国内では日本語でコミュニケーション。世界ではいろいろな言葉でコミュニケーション。その中で英語が広く通用する。だから、基本的素養として少しは英語能力を持ちたい。たとえ言葉は不自由でも、音楽、美術、スポーツ、料理、芸能などで交流できる。コミュニケーションは言語、身ぶりというが、それ以外に文化活動も忘れてはいけない。

  そうか。ジョギング中の「妄想」とはいっていられない。それを整理すればそんなことになりそうだ。自分の場合、日本語と英語を使い、ジョギングや登山、自然観察を楽しみ、内外の人たちと食事しながら文化活動を語り合う。それで少しはバラ色の人生が出来上がる。「ラ・ヴィ・アン・ローズ」(バラ色の人生)になるかもしれない。

  もはや「疾走」はできないが、「小走り」と「並み走り」をしながら、横井さんや小野田さんを見習え、と思い続けてきた。もうひとつ「妄想」を発展させれば、これからの日本や国際社会を少しはバラ色に染められる可能性がここにもありそうだ。

  走る前に考えるドイツ人、走りながら考えるイギリス人、走った後に考えるスペイン人とか言われるけれど、考えを発展させるには一度ならず、何度も走ることが必要である。
(放送大学客員教授)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします