2009年 8月 15日 (土)

       

■ 宙に浮いた8月15日付の復命書 祖父らの苦労をしのぶ

     
  初太郎さんの復命書を保管してきた國雄さん  
 
初太郎さんの復命書を保管してきた國雄さん
 
  越戸國雄さん(63)‖盛岡市山岸1の8の12‖は、祖父の初太郎さんが、終戦の1945年8月15日付で残した県庁への復命書を大切に保管している。初太郎さんは終戦直後に退職するまで内務省から岩手県に出向。1945年8月の米空母による三陸空襲の被災地に診療班として赴き、宮古市など沿岸8市町村の被害集計と医療当局者の必死の救援活動を克明に記録した。初太郎さんが盛岡に戻って知事に復命書を提出する前に玉音放送が鳴った。國雄さんは、祖父が終戦後の混乱の中で自宅で保管してきたという。

 初太郎さんは1945年8月9日から13日までの5日間、岩手県が宮古地区に派遣した診療班の陣頭指揮を取った。初太郎さんは技手として内務省から出向し、平時は県の保健医療の当局者だった。1933年の三陸大津波の際には災害出動して被災者を救援した。太平洋戦争中は県幹部の一人として傾く戦局の中で民生の安定に奔走した。

  1945年夏には三陸沖まで米艦隊が展開し、釜石市などに艦砲射撃や空襲を繰り返した。空母の艦載機が宮古市や、海軍基地があった山田町のほか、内陸に飛来して盛岡市などを襲い、県内各地を爆撃や機銃掃射で痛めつけた。

  復命書は岩手県の官せんに書かれ、当時の宮田為益知事に提出される予定だった。8月10日の報告には「一、宮古市継続爆撃中(七・五〇)一、午前七時五十分 山田国民学校、製氷会社付近、大沢村航空隊、船越村大浦四ヶ所ニ火災発生」とある。

  11日の報告には「一、帰還看護婦等ニヨリ巡回セルモ患者ナシ 一、未診患者火傷一名アリ 一、死亡診断書一発行セリ 一、宮古警察署長ノ依頼ニ依リ山田町ニ海軍兵ノ傷者多数発生シタニヨリ医師二名看ゴ婦二名ノ応援ヲモトメラレタル」とあり、現地の悲惨な状況を行政官の目で記録している。

  巻末に記された「昭和二十年八月九、十日両日ノ被害」によると、死者は宮古市13、山田町15、田老村1、折笠村1、重茂村2。重傷者は宮古市3、山田町49、田老村1、全焼は宮古市464、山田町1、小本村27、船越村7、折笠村10、重茂村1など。

  國雄さんは「宮古、山田、田老、重茂などでこんなことがあったことを伝えたい。日本は戦争によりプラスマイナスさまざまなことがあったが学校では教えない。叔父も釜石の捕虜収容所に勤務していたころ、捕虜を連れて腹が空いているから飯を食わせてやってくれと頼んでいたという」と話す。親族の戦争体験を通じて、当時の三陸の悲劇を思う。

  越戸さんの叔父の優一さんは、迫り来る戦火の前に幻に終わった東京五輪の水泳選手候補だったが、学徒動員され南方で戦死した。初太郎さんは息子を亡くした悲しみの中で終戦後の1946年に県を退職。戦後は盛岡市の桜山神社の役員や神官を務め、1989年に92歳で亡くなった。

  國雄さんは「祖父は三陸大津波の話はよくしたが、自分の息子が戦死しているからか戦争の話はあまりしなかった。復命書に判を押して知事に出そうと思ったら終戦になり、そのまま家に持ち帰ったのだろう。祖父は本箱に入れて、触ってはだめだと言っていた。祖父の死後に見て、大事なことが分かった」と話す。8月が来るたびに祖父や叔父の苦労をしのんでいる。

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