2009年 8月 16日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉65 小川達雄 秩父路を行く・上10

    四、続・秩父の空
  ここでは大正五年九月三日、賢治たちが渡し舟で寄居側の川原に戻って来た時の気象について、熊谷気象台の記録を記しておきたい。
  ついては、またその時の歌をあげる。
 
  はるばると秩父のそらのしろぐもり河を
  越ゆれば円石の磧。
 
  豆色の水をわたせるこのふねのましろき
  そらにうかび行くかな。
  賢治は「そらのしろぐもり」「ましろきそら」といっているが、そのとおり、三日は全日、雲量十(空全体を十、としてその全部ということ)の曇り空であった。その記録は六時間刻みで、午前十時は乱雲、気温二四・三度、午後二時には積雲と積乱雲の記号が記され、気温二八・八度となっていた。曇り空のため、前日の最高三二・〇度から、その日は二九・一度と少し下がっている。
  賢治は、もともと曇り空が苦手だったらしいが、秩父ではさすがに違った。「河を越ゆれば」のところは確定条件法になっていて、条件をつけて次を導く語法である。従って、そこには〔河ヲ越エルト、ナントマア〕と、驚きの小休止を入れて読むのがいいと思うが、とにかく、賢治は秩父の見学旅行が楽しかったようである。
  埼玉県統計書によれば、大正五年の秩父郡の舟の数は十、発動機付きの舟はなかった。それらはいずれも、渡し舟として利用されていたわけである。
  賢治が舟に乗ったのは、中学四年の修学旅行が最初で、それは一関から石巻までの船旅と松島湾周遊、次には、ついこの三月の旅行では、高農の生徒たちと鳥羽から愛知・蒲郡までの船旅である。しかしそれらはいずれも蒸気汽船に乗ったのであって、この時は川波が手ですくえるほどの水面に、たった一本の竿が頼りの舟に乗った。これはいかにも、秩父ならではの経験である。
  この、〔いつの間にか空に浮かんで行く〕といった感動の背景には、昔のままの渡し舟、前面に広がる川原の景観、満ち足りた秩父旅行、等々のことがあったと思う。
  さて最初の川原に再び戻って、そこでだいたい正午過ぎ、昼食の時間である。生徒たちは土手の大きな木々の陰で、にぎり飯を頬張ったのであろうか。この日は、午前十時から午後二時の間に、時々、降雨量二・三_の霧雨があった。
  次は午後の行動であるが、この日の確実なポイントとしては、賢治が採取した岩石標本に「ハグレ 滑石片岩」「波久礼 緑泥片岩」の二個があった。波久礼(ハグレ)は、熊谷からやって来た寄居の次の駅で、賢治たちがいま居る川原からは、およそ四`の距離である。
  賢治たちはそこまで歩き、標本採取の後、波久礼から汽車に乗ったのであろう。そう考えて、この日の大体がわかってくる。

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