2009年 8月 18日 (火)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉121 岡澤敏男 白樺と四列の落葉松

 ■白樺と四列の落葉松
  たしかに馬トロ(馬車鉄道)の「まがり角」に一本の白樺が立っていました。前号で紹介した蝦名さんが『小岩井会会報』(第10号)で「白樺の思い出」をつぎのように語っています。
 
  「鶴が台の白樺と言えばトロ線のカーブの処、そしてそこにある白樺を思いだす。それほど大木ではないが目につく。あたりになんにもないから。この白樺を目標にして、いろいろなことがある。例えば大正12年に小岩井農場で耕地に最初に石灰試用の際もこの白樺を目標に西方へ帯状に2町歩散布したことがある。

  このとき試用した石灰は石灰岩を砕いたもの、即ち石灰砕石とて人間の小指大の砕石であった。以後は石灰粉という60メッシュのアミを通した粉を用いた。」

  この回想記は、パート4に描かれた「まがり角」の白樺の実在を明らかにしてくれたことは何よりのことです。しかし石灰粉(石灰砕粒)の最初の試用を大正12年と述べた部分については注釈が必要なようです。

  『小岩井農場七十年史』年譜によれば、大正10年に「土地改良のため全耕地に石灰石砕粒を施用す」とあり、『小岩井農場百年史』にも石灰試用を大正10年頃としている。また蝦名さんの上司であった耕耘部主任(部長職)の鈴木彌助氏は自著『小岩井の飼料作物』(昭和29年6月発行)で(蝦名さんの言う)石灰砕粒を施用したの大正12年からだが、その前の2年間は石灰焼化場の屑石(砕石)を施用したと記述している。

  すなわち大正10年ごろのアメリカ農業専門誌で土壌改良に石灰石の細砕したものを施用する方法を知った農主(岩崎久彌)はこの方法を農場にすすめました。

  まだ石灰石を細砕する機械もなかったころなので大正10年、11年にはやむなく石灰の小さな屑石を施用したものと思われる。

  大正12年になり県南の石灰業者(東北砕石工場の前身)が細砕の設備をして石灰砕粒を供給するようになったので、大正12年からはこの石灰砕粒を施用することになった。これが蝦名さんの記憶だったのです。ちなみに賢治が大正11年1月6日に耕耘部を訪れたとき、入手した教材資料に前年試用した石灰砕石のデータもあったことはいうまでもないでしょう。

  なお耕耘部主任鈴木彌助氏が賢治の恩師関豊四郎教授と東京帝国大学農学部の同窓であったという奇遇にも注目されます。関教授は同大学を明治25年に卒業し鈴木主任は明治41年に卒業している。鈴木主任は、耕耘部を訪れた賢治との初対面で関教授と賢治との密接な関係を知って好意をもち接遇したのでしょう。賢治が耕耘部に厚遇されたとみられる背景には、そうした事情があったことが推察されるのです。

  白樺のそばの踏切を渡って耕耘部の近道を歩いて行くと、右手に見覚えのある「四列の落葉松」が現れました。それは1月に来場したとき吹雪のなかで幻のように出現した(四列の茶いろな落葉松)でした。

  この「四列の落葉松」の意味は決して単純ではなく長篇詩のモチーフと深くかかわる「現象」とみられる。すなわち「パート9」において、賢治は「アザリア会」のユリア、ペンペル、ツィーゲルの3人と並んで農場内を歩行する幻想にひたるが、ツィーゲルだけが「あのから松の列のとこから横へ外れた」と不条理な現象をよびおこす「四列の落葉松」なのです。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします