2009年 10月 10日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉80 小川達雄 秩父路を行く・下11

     八、峡流の白き橋

  賢治が荒川の碧に注目したあと、強い印象を受けたのは、三峰神社の登り口に架けられた太鼓橋、登龍橋である。
 
  峡流の白き橋かもふるさとを、おもふに
  あらず涙あふれぬ。
 
  その橋は朝からの馬車の終点にあった。夕暮れ近い渓谷に浮かび上がった木造の円弧。賢治の歌には「白き夕日よ」(歌稿B二七六)、「夕陽をあびて白き家建てり」同四)等の例があるように、〔夕日〕と〔白〕|賢治が白いと感じた|とは深い類縁があった。はるか下方に、ほこらかな碧の渓流、それに緑色がかった大きな露頭を従えた橋は、緑の山間に堂々、君臨のようすである。

  思わず賢治は、「渓流の白き橋かも」と仰いだが、そこには、得難いひとときの神秘に際会した、という感動があったらしい。「ふるさとをおもふにあらず」とことわったのは、きのう寄居町の歌で、ふるさとをバックに「旅はる〓〓と」と、いくつもうたっていたから、これはもはやふるさととは次元を全く異にした、この橋だけに限られた思い、と云いたかったからか。

  ※この、賢治が見た橋について、念押し
  をしてみると、まず小鹿野方面から南下
  して再び荒川の流れを見た贄川(ニエカ
  ワ)では、渓谷に架かった八幡橋があっ
  た。しかし、この橋は荒川と平行してい
  て(つまり荒川にほぼ直角に注ぎこむ支
  流の橋で)、賢治たちはこの橋から約二
  五〇b離れた地点を通過していた。
   また、贄川から二`ほどの地点の万年
  橋は「著名橋梁 萬年橋、大輪橋(登龍
  橋とも云ふ)の二橋特に著はる」(『秩
  父郡誌』大正十四年)とあった。しかし
  荒川渓谷の屈曲により、その優美な姿は、
  橋の地点を三百bほど過ぎた後、高い位
  置の街道から遠くに見えてくる。その時
  荒川は樹林の下で、この橋とは考えにく
  い。賢治のいう「峡流の白き橋」は、登
  龍橋なのであろう。

  賢治の秩父旅行とほぼ同時期の大正五年七月、『三峰大観』(江森泰吉)は、この登龍橋の景観を、こう紹介した。

  「〜隧道(トンネル)を出でゝゆくこと
  四五町(町、は約百b)、左りにだらだ
  らと下り、大輪の人家を経て登龍橋に達
  す、巌石ますます美也、両崖せまりて水
  深し、紅葉さへありて、秋の錦をとゞめ
  たり」(大町桂月)

  この橋は、絵の中の橋だったのである。

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