2009年 10月 31日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉86 小川達雄 ちゃんがちゃがうまこ2

    二、盛岡の夕暮

  賢治は大正六年の四月、高農の寄宿舎から出て下ノ橋際の玉井郷方家に下宿した。これは盛岡中学に入学した弟清六と父方の甥・宮沢安太郎、また盛岡農学校に入学したこれも父方の甥・岩田磯吉の監督、ということもあったらしい。

  清六は春休み中の賢治よりひと足先に着いて、玉井家で兄からの初めての手紙を受け取った。それには、こんな内容が書かれていたという。

  「君が下の橋の近くで、私と一しょに下
  宿することになつて、そこから中学校に
  通学出来るといふことは実にいいこと
  だ」
  「玉井さんの家から下の橋の方に歩いて
  見給へ。そこの教会に向つて左に曲がつ
  て少し行けば、『作人館』である。その
  学校の裏の広場に出れば、君はそこで岩
  手公園の美しい石垣を見るだらう。
  その石垣の蔦の立派なことは、どんな季
  節でも、いつまで見ても、あきることは
  ないだらう。
  そしてその辺の芝草が、もういまごろは
  鋭く鳴つてゐる筈だ。」
  「それから君は公園のグランドの方に行
  つて見給へ。もう鵞鳥たちが長い首をの
  ばして、蛇のまねをしながら君たちを追
  ひかけて来るだらう。」
  「若(モ)しも君が、夕方岩手公園のグ
  ランドの上の、高い石垣の上に立つて、
  アークライトの光の下で、青く暮れて行
  く山々や、河藻でかざられた中津川の方
  をながめたなら、ほんたうの盛岡の美し
  い早春がわかるだらう。」(宮沢清六『
  兄のトランク』)

  これは賢治からの手紙を、ほぼ四十年余も過ぎた後に、思い出して書いたもので、中学新入生の頃の新鮮な感動がいきいきと伝わってくる。そして賢治の、この岩手公園への思い入れは、どうであろう。

  「アークライトの光の下」の「高い石垣」とは、いうまでもなく本丸の突端であって、賢治はじつに、そこから中津川を見遙かしていたのである。こうした盛岡への愛着の中心部に、下の橋をわたる馬こたちの姿があった。賢治はその鈴の音から、とくに「ちゃんがちゃがうまこ」と記している。

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