2010年 1月 9日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉142 岡澤敏男 インドのサーンチー仏塔

 ■インドの「サーンチー仏塔」

  賢治が博物館(陳列館)を「巨なるプデング」と見立てたのは博物館そのものへの連想ではなく、この博物館が「玉蜀黍の倉庫」(「下書稿」六)と脱皮し、さらに「脱穀塔」(「下書稿」七)へと変態する観念連合があって透視したものと思われます。

  しかもこの「脱穀塔」の原型はインドの「サーンチー仏塔」にあったのです。それを踏まえず陳列館や四階倉庫自体を「プデング」と見立てるのは、鋭敏な詩人といえども及び得なかったのでしょう。

  この作品は下書稿(四)に「農場」というタイトルが記されていることにも注意されます。

  ここでは建物を「玉蜀黍くだく三階の玻璃」と描かれています。この発想が下書稿(五)にも踏襲し「三階に玻璃を装いて/青ぞらに玉蜀黍を砕けり」と二行に書き直しています。ところがつぎの段階で発想の転換が行われたらしいのです。

  すなわち下書稿(五)を「まとめて○印で削除し」その「右上隅の余白一杯にびっしりと鉛筆の小さい字で改作」しています。それが下書稿(六)で、建物がつぎのように改作されている。

  そのかみの博物館を
  いま玉蜀黍の倉庫とした
  れば
 
  この第一形態に対し淡い鉛筆でつぎのように注目すべき手入れをしました。
  巨なるプテングに似る
  そのかみの博物館は
  いま玉蜀黍の倉庫とかは
  り
 
  ここに至って建物は農場の単なる3階建ての玉蜀黍(きみ)の倉庫から、もとは博物館であった建物が玉蜀黍の倉庫に改装されたものという観念が導入されたのです。

  しかも、その形態を巨大な「プテング」に似ると見立てており発想の原型の所在さえ暗示したのです。そして下書稿(六)から建物に「三階」という呼称がなくなり、「巨大なプデング」のような建物に変質したことが明らかになり、「建物」から「塔」へと観念の転換を図ったもので、もはや「農場」とのタイトルは消失し「塔中秘事」へとタイトルの移行が認められます。

  そして下書稿(七)から「倉庫」が「塔」という観念に飛躍して「玉蜀黍の倉庫」は「丘裾の脱穀塔」へと改変され、本作品の最終形態へと到達するのです。

  賢治の「塔」という観念は「中尊寺〔一〕」(「文語詩 一百篇」)の「手触れ得ぬ舎利の宝塔」(下書稿 三)や「晴天恣意」(「春と修羅 第二集」)の「白く大きな仏頂体」を「異の空間の高貴な塔」と見立てたことからもうかがえます。

  「舎利の宝塔」「高貴な塔」とは釈尊ブッタの分舎利をした仏塔(ストーバ)を指すものと思われる。中国や韓国では煉瓦や石造りの多重仏塔、日本では三重や五重の仏塔が多いが原型となったのは基部の直径が約36bあるインドのサーンチー仏塔だったとみられます。

  この仏塔はインドを初めて統一したアンショーカ王によって紀元前3世紀に創建されたお椀(わん)を伏せたような半球体の巨大な石の墳墓です。この仏塔には半球体の中心を貫く柱が立っていてその下端に釈尊ブッタの舎利が納められているのです。この貴い仏塔を「巨きなプデング」と見立てた詩人は、おそらく世界中で賢治以外のだれも存在していないでしょう。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします