2010年 2月 20日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉148 岡澤敏男 法華経と真言密教の融合

 ■法華経と真言密教の融合

  賢治は法華信仰の「不犯の戒律」を守るため農学校の教師だったころ、一晩中夜歩きをして沈静させることがたびたびあったらしい。

  たまたま盛岡郊外の北上山地まで花巻から夜歩きをして帰った賢治が「性欲の苦しみはなみたいていではありません」と関登久也に語ったという。また、賢治が森荘已池と昼食をとった際に「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ。その大きな反動がきて病気になったのです」と述懐したと昭和6年7月の日記にみられる。

  こうした身体性の原理は、精神生活の活動を妨げる悪として大乗仏教においては否定する戒律ですが、真言密教では肯定されており「身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。…物質が肯定されるとき、客観世界が肯定されるのである。密教は偉大なるコスモロギーをもっている…私はこの身体性の肯定、物質の重視、コスモロギーの存在を、密教の思想的特徴と考える」(『空海の思想について』講談社学術文庫)と梅原猛氏は述べています。

  晩年の賢治は森荘已池に漏らしたように、明らかに禁欲を否定し身体性を肯定する真言密教に近い宗教意識にあったから、「塔中秘事」はサーンチーの宇宙卵↓巨なるプテングに似る博物館↓脱穀塔という観念連合によって描かれたストゥーバを舞台に演じることになったのです。

  しかも、その舞台が玉蜀黍(とうもろこし)や大豆の貯蔵塔ではなくなぜか脱穀塔としました。

  この脱穀塔に隠された意味は、たぶん脱穀という語意にかかわっているとみられます。すなわち脱穀とは、結実した穀物(赤ん坊)を穂(体)から離脱(出産)させるという意味をもつので、脱穀塔は巨大な産院を隠喩します。したがって脱穀塔とは連続する新しい生命体によるコスモロジーの存在を意味するストゥーバーなのです。それが「不犯の戒律」を否定し、性愛という身体性を肯定した背景にあった思想とみられます。

  賢治が身体性の戒律に疑問を抱いたのは昭和3年の夏、稲作指導に疲労困憊(こんぱい)して倒れ血を吐き40日余の病床生活のさなかであったと推察する。

  昭和4年の春に「銅鑼」(ドラ)の同人で中国の詩人黄瀛(こうえい)が病床の賢治を訪れた際、賢治の様子を「南京より」(草野心平編『宮澤賢治追悼』昭9・1次郎社)に回想している。そのなかで「私は宮澤君をうす暗い病室でにらめ乍ら、その実はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかった」と述べ、賢治は「詩の話よりも宗教の話が多かった」と述懐しているのです。

  黄瀛に語った「大宗教」とはどんなものだったのか。上田哲氏は「黄瀛にとって〈わからない〉ながら〈大〉を感じさせる何かかあったであろう」としながら「神秘主義的なシャーマニズム的な要素をもったものではなかったか」(『宮沢賢治・その理想世界への道程』昭・60・1明治書院)と推察しながら「既存の東西の諸宗教を習合した新宗教構想ではなかったか」と指摘し「一種のシンクレティズムが形成されていた」と考察しているのです。

  シンクレティズム(syncretism)とは相互に対立・相違する神学上の見解を和解・融合させようとする試みだという。日本の宗教では平安時代の神仏習合(本地垂迹〔すいじゃく〕)の試みがそれにあたると辞書にある。定かではないが上田氏の炯眼(けいがん)どおり法華経と真言密教とのシンクレティズムが形成されつつあったと思われます。

 ■黄瀛の賢治追悼「南京より」抜粋
 
  一九二九年の春、学校の卒業旅行が発表された時、私は随分よろこんだ。…花巻に於て宮澤君と最初にして最後の会見をしたことは今でも思ひ出すことが出来る。…私は五分間だけといふ条件つきで宮澤君面会した。その時既に宮澤君は何度かの病気で、危篤から少しよくなった時といふことをきゝ乍ら…私はすぐ帰らうと思ったら、弟さん(?)が出てきて、本人が是非とほせといふからと言うので、宮澤君の病室にはいった。…五分間がすぐに立つのを気にして私が立とうとしたら、彼は何度も引きとめて私達は結局半時間も話したやうだ。それも詩の話よりも宗教の話が多かった。

  私は宮澤君をうす暗い病室でにらめ乍ら、その実はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかった。

  宮澤君の生理的に不健康な姿に正対して、私はそのあとで何を話したか覚えてゐない。彼のお父様からも、二冊の宗教に関するパンフレットをいたゞき、人力車にのって花巻の停車場へかへった。(以下略)


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