2010年 8月 11日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉189 伊藤幸子 被爆歌人

 原爆をわれに落しし兵の死が載りをれば読む小さき十六行
                                        竹山広

  「昭和20年1月に竹山は喀(かっ)血。その後下痢が続き、腸結核を疑われて浦上第一病院に入院した。8月9日は午前10時に兄がリヤカーを引いて迎えに来るはずだった。(中略)この日は朝に出た空襲警報が長く続かず、話に夢中になっていると飛行機が自分の真上に急降下するようなものすごい音で近づいてきた。ほとんど同時に閃光が走り、衝撃音が爆発し、建物が身震いした。迎えに来るはずだった兄は隣人が防空壕を掘るのを手伝っているとき被爆、真っ白に塗られたチンク油を寒がりながら8月15日に亡くなった。」

  ことし3月30日、被爆歌人竹山広さんが長崎の自宅で亡くなられた。90歳。短歌総合誌は各誌丁寧な追悼特集を組んだ。少し引用が長くなったが、これは角川の「短歌」7月号に寄せられた三枝昂之氏の一文である。

  父祖の代からの敬虔なカトリック信者の竹山氏の数々の業績は周知のものであるが、私は20年8月9日の原爆投下時の長崎市民のリアルな暮しの一端を知りたくてこの文に注目した。

  竹山はその後、自分の眼裏(まなうら)に焼きついた一人一人の死者を歌に詠もうとした。しかし死者たちは8月9日の姿のまま、夢の中でも竹山に助けを求めた。恐ろしくて彼は「もうできん」と歌を作ることをやめてしまった。10年後、また大喀血をして入院。時代が進み、ストレプトマイシンに救われて、以後は被爆体験を踏まえて戦後社会への批判警告を積極的に詠み込んでゆくようになる。

  平成14年5月、第17回「詩歌文学館賞贈賞式」が北上市で行われた。この時の短歌部門の選考委員は宮英子さんで、受賞者竹山さんともども80代とは思えぬ若々しいスピーチで会場を沸かせた。私は「長生きをしてよかった」と笑うお二人の写真を何枚も撮らせて頂いた。

  「目覚めたるかたはらに妻の顔のある当然とせしこのさいはひや」うらうらと花の香りの漂うなか、奥様が洗濯物を干している間に、眠ったままに逝かれたという。「あな欲しと思ふすべてを置きて去るとき近づけり眠つてよいか」と遺言のように詠まれた90年の終幕。魔の閃光に貫かれた静謐(ひつ)な歌人の新盆である。
(八幡平市西根)


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