2010年 8月 14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉173 岡澤敏男 「盛岡附近地質調査」の邂逅

 ■「盛岡附近地質調査」の邂逅(かいこう)

  大正5年4月に保阪嘉内と邂逅した賢治は、7月には「盛岡附近地質調査」という〈夏期実習〉にも邂逅するのです。

  「七月八日(土)農1、2(農学一部、二部)二年関教授統導、盛岡附近地質見学。このあと二年生一二名が三名宛、四班に分かれ地質調査を行う。賢治は細山田良行、小菅健吉と組んでB班を編成、盛岡西北部、厨川村、滝沢村方面を担当した。(中略)この調査行の成果は『盛岡附近地質調査報文』として後に『校友会々報』三三号(大正六年三月一六日発行)に掲載される。」と『校本全集』第十四巻の年譜にある。

  この日、関教授は農学1部と2部の2年生を引率して盛岡附近の地質見学という野外授業を実施したが、前記『校本全集』第十四巻「伝記資料」によると、関教授の「鉱物及地質」の教科は1年生(農学1部、2部共)の時に履修する科目であって、2年生では関教授は地質や鉱物ではなく「土壌及肥料」の教科を担当することになっているのです。したがって、2年生の教科にはない「鉱物及地質」に関するフィールドワークを2年生を引率して実施したのはなにか特別の理由があったものと思われます。

  元来盛岡高等農林の地質実習は明治43年以来昭和17年までは県外への「地質旅行」によって行われていたのです。

  実習先は「岩手県下を始め、宮城、福島、山形、秋田、山梨、長野、栃木県、さらにはわが国古生界研究発祥の地であり、古生代地層名の由来地となった埼玉県秩父地方が対象地」(井上克弘著『石っこ賢さんと盛岡高等農林』)だったといわれます。

  この間に関教授は明治43年から大正8年(9年に西ヶ原の農林省農事試験場へ転任)まで統導していて、賢治たち農学2部2年生にも大正5年9月1日より9日間の地質旅行(埼玉県下)の日程が組まれていたのです。

  それにもかかわらず関教授がその2か月前の7月に「盛岡附近」の地質見学を実施したのはなぜなのか。しかも賢治たち農学2部の2年生のクラスにだけ「盛岡附近地質調査」の〈夏期実習〉を課したことは、なにか異常性を感じさせます。

  この異常さにいちはやく気づいたのは元『早池峯』の編集人亀井茂氏(現「宮澤賢治の会」会長)です。『早池峯』とは早池峰山を愛好する同士で組織された「早池峯の会」発行の年刊誌で、亀井氏は賢治作品について作品現場に即した独自の見解を毎号掲載しているが、とくに「宮澤賢治と盛岡高等農林時代断片」シリーズ(11回)は、元岩手大学農学部農芸化学科・分析化学実験教官の経歴を生かし資料的な評論を展開しています。

  そのなかで「盛岡附近地質調査」の〈夏期実習〉をめぐる発端や動機について賢治と関教授との親密な師弟関係を解明しながら第25号、28号、29号に綿密な考察を重ねて、ことの発端は賢治の発意によるものではないかと推察しているのです。

  この推察はかなり真相に近いものと思われます。関教授がその発意を受け入れ〈夏期実習〉を課したのであれば、賢治にとって「盛岡附近地質調査」はやはり邂逅というべきできごとだったに違いありません。

  この「盛岡附近地質調査」の実績は、やがて大正7年5月になって「稗貫郡地質及土性調査」へと続投していくのです。

 ■「賢治らの盛岡附近地質調査の動機」について亀井茂氏の推察(抜粋)『早池峯』第25号より

  「(前略)岩石・鉱物・地質好きの賢治は中学時代より、盛岡周辺の山野を跋渉しており、さらに高農入学後は、その道の権威関豊太郎先生と出会い、それらを本格的に学ぶことになり、より一層足しげく盛岡周辺の山野を、あたかも賢治フィールドのごとく跋渉し、現地研修を深めた。それがもとで、彼はこの地域の地質図作りの夢をもつようになったであろう。

  また、一方関先生の信頼を受け、先生の研究室にもよく出入りし、岩石・標本に親しみ、クラスではもちろん一番の地質学通となり、クラスに地質学ブームを起こし、(中略)賢治の夢の実現、即ち盛岡附近地質調査をクラスで計画、先生とも計り熱心な協力を得、かくして、先生盛岡高等農林赴任以来はじめての地質調査が、農学二部二年生賢治らのクラスの夏期実習として、課せられることになったと推定してみた。(以下略)」


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