2010年 8月 21日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉174 岡澤敏男 地質調査の足跡

 ■地質調査の足跡

  賢治たち農学2部(農芸化学科)2年生は12名だったから、盛岡附近地質調査の夏期実習は3人宛の4班(A、B、C、D)に分かれて対象区域の地質調査を実施している。

  賢治は細山田良行、小菅健吉と組んでB班を編成し盛岡西北部、厨川村、滝沢村方面を調査しています。調査は年譜によると7月8日から開始されたという。だが塩井義郎(A班所属)の回顧録によると「多くの生徒は、休暇前には、少し調査にいったが、夏休になると、調査を人に頼んでおいて皆、国へ帰ってしまった。その時に調査を任されたのは、宮沢君と私であった」(「思い出の山川 思い出のまち 思い出の人々」)らしい。

  B班の細前田(鹿児島)も小菅(栃木)も夏休みに入った21日以降は郷里に帰っていったとみられ、21日以後の地質調査は賢治が単独で続行したと考えられます。

  それは「大正五年七月」とある歌稿(A)12首が単独調査のメモワールと見なされるもので、さらに332から343に至る詠草の配列によって調査の道程がほぼ推定されるのです。次の332、333の詠草はその序歌なのでしょう。

  そら青く観音は織るひか
  りのあやひとにはちさき
  まひるのそねみ 332
  夏となり人みな散りし寄
  宿舎をめぐる青木にあめ
  そゝぎつゝ   333

  333には「調査を人に頼んでおいて皆、国へ帰ってしまった」という寄宿舎の風情を、332には残留し調査する者の揺れ動く心情(そねみ)がみられる。そして調査の道程は334・335(湯船沢二首)、336(石ケ森)、337・338(沼森二首)、339・340(新網張二首)、341(大沢坂峠)、342(仝まひる)、343(茨島野)の配列によって読みとれるのです。

  しかも343の詠草の段落に添えた「以上地質調査中」という言葉書は「以上は地質調査中の詠草です」という意味ですが、これら一連の短歌によって単独調査した賢治の道程が察知できるのです。そうすると、B班が実施した地質調査のなかで3人によるフィールドワークの場所はいったいどこなのか問題になります。

  ところが参加したメンバーの細前田や小菅に逸文もなく、賢治に「大正五年七月」のような歌稿も見当たらないので特定する決め手に欠けていますが、ただ一つの手掛かりが存在するのです。それは地質調査行の成果をまとめた『盛岡附近地質調査報文』(以下「報文」と略す)のなかにキーワードを見いだせるのかも知れません。

  この「報文」とはA、B、C、D4班が担当区域の岡巒(こうらん)の「一礫一岩塊」を採取し関教授に岩種を判定してもらったり、採取した際に観察した記録の野稿(野帳)を整理し統合して作成した地質図並びに「報文」だから、このなかにB班3名の野稿もデータとして採用されているはずで、3名による調査場所を示すキーワードもこのなかに秘蔵されているとみられます。

  「報文」は「地理及地質の概要」「火成岩及風化物の記録」「水成岩及其風化物の記録」の3部構成となっているが、4区域の「地理及地質」を地勢によって三区域(第一、第二、第三区域)に分けられている。このなかで賢治たち3班の調査区域は「第二区域」の一部と「第三区域」のほぼ全域に及ぶとみられます。

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