盛岡タイムス Web News 2010年 12月 4日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉189 岡澤敏男 網張引湯と賢治

 ■網張引湯と賢治

  すでに述べたように保阪嘉内と出会い、また「盛岡附近地質調査」の夏期実習として滝沢村をフィールドワークした大正5年は、賢治文学にとって大きな転機であったとみられる。

嘉内のもつ強烈な文学的なキャラクターを賢治がどのように受容したのか分からないが、大正5年7月以降は短歌表現にも変化が現れ「冬のスケッチ」↓口語詩へとジャンルを跨(また)ぎ同時に短篇・童話・戯曲の創作へと拡大していったその起爆剤であったことは間違いない。

  また「盛岡附近地質調査」は江刺郡地質調査、稗貫郡地質及土性調査へと連動することになった。そして岩手山ろくをはじめ五輪峠・種山高原・豊沢川流域・大迫・早池峰山ろくなどの山野を跋渉(ばっしょう)したフィールドワークは「春と修羅」「文語詩」の詩稿となり、短篇・童話の舞台や描写のディテールとしてリアルに反映していったのです。大正5年は、たしかに賢治文学のビッグ バンだったと言ってよいでしょう。

  これまで本稿でとりあげてきた作品の多くは「盛岡附近地質調査」のフィールドワークを起点に、岩手山を頂点として全方位の山ろくを跋渉して創作されたものばかりです。なかでも調査中に詠まれた一連の短歌には、7月21日からの夏休みでグループの2人が帰省したので、賢治が一人で地質調査をする孤独な心象がにじみ出ています。

  連作をたどれば、この調査が1泊2日の日程であったことが察知され、後年の作である短篇『沼森』に短歌紀行では描ききれなかった心理風景を存分に書き込んでいます。このなかで沼森の調査を終えて「麓の引湯でぐったり今夜は寝てやるぞ」と独白する一節がある。また引湯へは沼森から「ぐるっと防火線沿いに帰って行く」と説明しているので、おそらく沼森平を巡る防火線をう回し往路にとった影添坂を下っていったのでしょう。

  引湯はこの先の細谷地に所在したのです。5万分の1の地形図に「新温泉」とある表示は「引湯」があった場所を指している。この「引湯」は、盛岡の財界人が出資して大正3年6月に設立した資本金6万円の「網張引湯会社」(三田俊次郎社長)によって雫石西山の網張温泉元湯を松材木管をもって5里半(約22`)の山道を紫土手のある細谷地まで誘導したものでした。

  賢治は歌稿の小見出では「新網張」、短篇『沼森』で「引湯」と書いているのはその辺の事情によるものらしい。しかし会社名はのちに「新盛岡温泉株式会社」と改称され、温泉地名も「新盛岡温泉」と呼ぶようになった。

  ところが、この「新盛岡温泉」の正式の開業式について新聞資料には大正6年6月10日と公表されているので、賢治が訪れた大正5年7月下旬頃には開業する温泉旅館があったのか疑問視されている。そこで当時の「岩手毎日新聞」を調べてみると、「網張引湯会社近況」という7月7日の記事に「(引湯会社が)公衆浴場建設中の所来たる10日頃迄には全部落成の予定」とあり、さらに7月15日の記事には「目下旅館、商店八軒開業し」と報じられています。そこで開業早々の温泉旅館に賢治が靴を脱ぎ、浴槽に浸かりながら地質調査の疲れを癒やす姿が推察されてきます。

  なお会社の公衆浴場は4間×5間のガラス張りの独立した建物で、9尺に4尺五寸の浴槽に湯があふれ流し板の上を流れていると、8月8日付コラム欄「市北郊の楽園(上)」〈新盛岡温泉場〉にみられる。

 ■「網張引湯会社近況」(抜粋)

  大正5年7月7日付「岩手毎日新聞」より

  網張引湯会社にては予てより公衆浴場建設中の所、来る十日頃迄には全部落成の予定なるが源泉地湧口時々地震の為動揺を来し都度復旧工事を施行し来りしが之等も大抵同期日頃に竣工すべきにより二十日頃に至らば温度も適度に昇るべく下旬にも至らば開業式挙行の運びに至るべしと、因に元温泉主沢村氏の新築旅館は屋内に浴室を設備して長く滞在浴客には便宜を図るべしと言ふ。なほ附近の建築は既に十四戸に達し夫々商店もあれば日用品の需要も差支なく(以下省略)

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