盛岡タイムス Web News 2010年 12月 18日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉191 岡澤敏男 春子谷地は泥炭地

 ■春子谷地は泥炭地

  春子谷地にはこんな伝説がある。

  大昔、鞍掛山の南口に夫婦と娘春子との3人暮らしの炭焼きがいた。春子は18を迎え、山里には珍しいほど美しい容姿の娘となった。9月の末のある日、春子の姿が見えなくなり両親がいくら探しまわっても娘は居なかった。夕陽が西山に傾く頃、どこからともなく春子が帰ってきた。親が「どこに行ったのか」とたずねても娘はうつむいて溜め息をつくばかりだった。

  その後10日ほどたち、また春子の姿が見えなくなって夕方の七ツ時(4時)にようやく帰ってくると着物の腰から下が濡れていた。母親がそのわけをきくと、娘は「逢の沢さ行った」とだけもらした。その後は変った様子もなかった春子がある夜、突然うなされて「吉さん、吉さん」と大声で叫んだ。それからはたびたび寝言を繰り返し、娘は夜中に家をぬけだし逢の沢に行くようになった。吉さんとは逢の沢の主で、春子はこの主と逢瀬を忍ぶ仲となっていたのだった。

  岩手山に2、3回ほど雪が降り、ある雪混じりの大嵐の夜のこと、春子は真夜中に吉さんに誘われ家を出て逢の沢に行き、そのまま沼に身を沈めてしまった。土地の人たちがこの噂を知って娘の悲恋を傷み、この沼を春子谷地と呼ぶようになったという。

  長い引用となりましたが、現在は湿地の春子谷地も昔は身を沈めるような沼だったというのです。「今では深くて1b位…たいていは、長靴で歩ける水深だが、昔は4bもある沼地もあったと記録されている」と『姥屋敷自治会二十五周年追想記』にあるが、「昭和30年頃東北大学の先生が春子谷地で、深さ20aごとに腐植物のサンプルを採取しているところに出会った。7bの深さまでも器具をさし込みサンプルを取っていたが、まだまだ深くまで腐植物がある」と、湿地の生態調査の記録を述べ、伝説にある深い沼地説を裏付けています。

  なお『追想記』は「長年に亘って流れ込んだ火山灰土や、旺盛に繁茂する湿地植物群の腐植物の堆積が、伝説の春子の恋人、吉さん(沼の主)の棲みかをも埋めてしまった」と、春子谷地の遠い時間の変遷を回顧しているのです。

  前回の引用した文語詩〔遠く琥珀のいろなして〕、そして『春と修羅』の「白い鳥」の後段にあるつぎの詩章には春子谷地の情景が描かれています。
 
  いま鳥は二羽 かゞやい
  て白くひるがへり
  むかふの湿地 青い蘆の
  なかに降りる
  降りやうとしてまたのぼ
  る
 
  また、次の3篇の作品は春子谷地を沼森平の泥炭地と同根の湿地とみなし、固有名詞ではなく「泥炭地」の比喩をもって春子谷地を暗示するものです。ひとつは「春と修羅 第2集」の〔野馬がかってにこさえたみちと〕で次の詩章にその特性をみる。作品は柳沢から鞍掛山麓の高原を横断し小岩井農場へと向かう道程の寸景として描かれている。
 
  泥炭層の伏流が
  どういふものか承知か?
 
  また、その先駆稿である「母に言ふ」に「陰気な泥炭地をかけ抜けたり」とか、「遠足許可」に「泥炭地の伏流をご承知かね?」とあるのも同じ情景で、これら3篇は「泥炭地」という比喩をもって春子谷地が暗示されているものとみられます。


 ■詩篇「母に言ふ」〔野馬がかってにこさへたみちと〕先駆稿(抜粋)

馬が歩いたみちだの
ひとのあるいたみちだの
センホインといふ草だの
方角を見ようといくつも青いろな丘にのぼったり
まちがって防火線をまはったり
がさがさがさがさ
まっ赤に枯れた柏の下に
わらびの葉だのすゞらんの実など
陰気な泥炭地をかけ抜けたり
岩手山の雲をかぶったまばゆい雪から
風をもらって帽子をふったり
しまひにはもう
まるでからだをなげつけるやうにして走って
やっとのことで
南の雲の縮れた白い火の下に
小岩井の耕耘部の小さく光る屋根を見ました
                 (以下略)


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