盛岡タイムス Web News 2011年 3月 22日 (火)

       

■ 〈被災地ルポ〉がれきの中を歩く人々

 盛岡タイムス社の記者2人が20日、大船渡市、陸前高田市に入った。車両の燃料不足で盛岡に本社のある新聞社でさえ厳しい切り盛りを強いられた。「1日も早く沿岸の被災地へ」との思いは募ったが、盛岡地域の安全情報、生活情報の掲載を重視。被災地入りは大震災から9日目を迎えた朝となった。(馬場惠)

     
  家族の思い出の品々を探してがれきの中を歩く人=20日大船渡町  
 
家族の思い出の品々を探してがれきの中を歩く人
=20日大船渡町
 
  ■古里の惨状

  大船渡市は古里だ。陸前高田市には大勢の親戚がいる。大津波から数日間、家族や親類知人の安否はほとんど分からず、生きた心地がしなかった。幸い高台の自宅にいた両親や一番親しくしていた叔父、叔母は無事。しかし、港に近い祖父母の家は父方も、母方も跡形なく流された。いまだ行方知らずの親戚も多い。流された夫や息子、妹一家の情報を求めて一人避難所に残る叔母もいる。

  津波の恐ろしさは、1960年のチリ地震津波で首まで水に浸かり、生き延びた母や祖母から何度も聞かされた。2階部分だけ漂流し傾いて残った当時の家の写真は目に焼き付いている。津波の危険を知らせるサイレンも幾度も耳にしてきた。自分だけでなく気仙沿岸で暮らす住民のほとんどが体で津波の恐ろしさを知っている。

  しかし、今回の津波は、それをはるかに上回った。陸前高田市では避難所に指定されていた公民館や体育館が軒並み流された。いつも避難している高台にたどり着き、ほっとしたところで「駄目だ。もっと上へ上がれ」の叫び声、波に追われるように崖をよじ上ったという話を大勢から聞いた。「線路より上(山側)は大丈夫」。大船渡ではよく耳にする言葉だが、過去の「大丈夫」はあてにならないことを誰もが思い知らされた。

  ■祖母の家の跡地に、家族のアルバム

  20日、大船渡の市街地は自衛隊などの大型重機で、がれきをかき分け、道路を復旧させる作業が続く。埠頭(ふとう)は優先的に作業が進み、いち早く沖に出て助かった漁船も見える。

  アルバムや位牌(いはい)など家族の大切な思い出を何か探し出そうと、がれきの山を歩く数家族とすれ違った。大波でかき回され、家があった場所に求めた品々があるわけではない。それでも祖母の家のあった場所には、誰が見つけてくれたのか、わたしたち孫の写真が収まったアルバムが置かれていた。

  金野大晟君(大船渡高2年)、そのいとこの一晟君(大船渡小6年)に会った。壊滅的な被害を受けた笹崎地区の家を見にきた2人。ビニール袋を手に、使えそうなものを探したが「ほとんど残ってなかった」。一晟君は25日に卒業式。用意していた中学校の制服は流されてしまった。でも、両親は無事。父親はたんすに乗ったまま魚市場の先まで漂流したが助けられたという。

  大晟君は大学進学を目指す。「津波を言い訳にしたくない。頑張らないと。やっぱり大船渡に貢献できる人間になりたい」。内陸部の人間に何ができるかと尋ねると「亡くなった人も大勢いる。これを他人事だと思わないでほしい。気持ちだけでも応援してくれるとうれしい」と真っすぐに目を見て答えた。

  ■避難所・高田第一中学校

  陸前高田市の高田第一中学校は約1800人が避難する市内最大の避難所だ。グラウンドでは月末の完成を目指し仮設住宅36戸の建設が進む。体育館は、おおむね暮らす地区ごとに避難者のスペースが区画され、炊き出しやトイレ掃除に避難者が交代で加わる自治活動が行われるようになった。

  同市並杉の熊谷陸子さん(69)は波に追われ市役所屋上へ避難。同じ場所に逃げた約100人と共に一命を取り留めたが、一緒に逃げた夫の出(すすむ)さん(74)の姿はなかった。次男の歩さん(40)の行方も分からない。「どこかで生きていてほしいが、もう10日。あすは遺体安置所へのバスが出るというので何とか乗せてもらう」。

  ようやく連絡が取れた東京に住む娘や妹からは、身を寄せるよう言われたが「もう少しここにいなければ」。掃除や炊き出しにも積極的に加わり「下着や靴は行き渡っていない。お風呂もまだ。インフルエンザも出たというし…」と他の避難者を気遣う。多くの人が安否の分からぬ身内に心を痛めながら、避難所での集団生活を必死で乗り切っている。

  大船渡警察署は管内で見つかった遺体のうち、身元の分からぬ遺体だけを住田町の住田生涯スポーツセンターに集め、身内を探す人に見てもらうことにした。避難所などから往復バスを出す。遺体がどこで収容されるか分からないため、管内に9カ所ある遺体安置所を徒歩や自転車で回って探している人が多いためだ。

  ■4月から学ぶはずだった校舎は

  陸前高田市は沿岸地域や中心市街地はもちろん、津波が気仙川をさかのぼり山沿いの竹駒町や矢作町の一部にまで達した。街は根こそぎ破壊され、景勝地だった高田松原の膨大な砂や泥ががれきを覆っている。赤茶けた無惨な風景の中、自衛隊の大型重機が、道路を切り開く作業に追われる。

  海岸から直線距離で約1`の高田高校。校舎3階まで津波が押し寄せ、見る影もない。部活動で学校に残っていた生徒257人は、高台の第2グラウンドに避難し無事だったが、残りの生徒の安否は確認しきれていない。

  4月からここで学ぶはずだった中3男子がいた。母や祖父母が行方不明。変わり果てた校舎に言葉もないが「こういうことがあったということをしっかり胸に刻みたい」という。高田高校の合格発表は他の公立高と同じ22日に大船渡高校で行われる。

  一緒にいた高田高1年の須藤翼君。バスケットボール部の練習で学校にいたが、周りの生徒と一緒に避難し助かった。今、力になっているのは「両親が生きていること」と話した。

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