盛岡タイムス Web News 2011年 4月 1日 (金)

       

■ 〈津波被災の現地から〉野田・田野畑レポート わが土地への思い

 久慈市から南下して、被災地を訪れた。そこで難を逃れた人たちの話を聞いた。気持ちは生活再建に向かうが、土地を離れたくないという思いと、津波に洗われたかつての土地には家を建てる気にはなれないという思い。数々のジレンマを抱え複雑な心境の中にあった。(泉山圭)

     
  がれきとなった自宅周辺を訪れる住民(野田村、29日)  
 
がれきとなった自宅周辺を訪れる住民(野田村、29日)
 
  ■野田村で出会った夫婦

  国道45号を越えてきた津波は野田村の中心部をがれきの山と化した。野田村役場から海側に50bほど離れると家々は既に建物の原形をとどめない状態。それでもがれきの除去を行う重機やダンプが昼休みになる間を縫って、自宅のあった場所に足を運ぶ人は多い。

  「何もなくても、何も残っていないと分かっても自分の家の跡を見たくて」。廣内幸作さん(78)、スエさん(72)の家も風呂場の壁がわずかに残るばかりで、跡形もなくなった。この日は家があった場所で割れ残った茶わんなどを見つけた。幸作さんは枝が折れ、倒れた庭木を指さして話した。全部自分で植えたものだと。

  1933年(昭和8年)2月20日生まれ。昭和三陸津波がやってきたのは10日後の3月3日だった。今回は自宅近くの工場にいるときに地震に遭った。テレビで緊急地震速報が流れた直後、これまで経験したことがない揺れが襲ってきた。

  「今までも地震があれば津波警報が出ていたが、いつも収まっていた。だからまた大丈夫だろうと思っていた。ただ今回は今までの地震とは違う。揺れ方が生まれて初めてで長く続いた」。自宅にすぐに戻り、サッシを閉めると車で愛宕神社まで避難した。スエさんは久慈市にいて津波の難を逃れた。「命を拾った。久慈にいなければ私は避難もしていなかっただろう」と話す。

  現在は久慈工業高校の避難所にいる。今後、新しい家を建てられるかは分からないという。ただ内陸に避難はしたくないという思いが強い。スエさんは「家を建てられるなら、やっぱり元のところに戻りたい。ずっと野田で生きてきた。野田に生まれ、野田で育ち、野田で終わりたい」と、最後まで野田村に残るつもりだ。

     
  駅舎も橋脚も流された島越駅周辺  
 
駅舎も橋脚も流された島越駅周辺
 
  ■田野畑村の男性

  田野畑村の島越地区は世帯数200あまりの小さな漁村。海のすぐ近くには数週間前までは三陸鉄道の島越駅があった。津波で駅舎は跡形もなくなり、橋脚も50bほど流されちぎれた線路が無惨な姿をさらしている。駅をしのばせるのは唯一残った石碑とホームに続くとみられる階段のみ。

  海に近い場所の住宅も高台にわずかに数軒が残るのみで、多くの住宅が基礎部分を残して津波が破壊。引き波で家財道具なども流された。下田五利さん(60)も津波で自宅を失った一人だ。

  宮古消防署田野畑分署に勤める下田さんは3月31日で定年退職を迎える予定だった。「定年も楽しみにしていたが何もなくなった。こんなのは見たくなかった」。地震の発生時は自宅2階にいて、すぐに羅賀地区に見回りに出掛けた。

  島越地区で生まれた下田さんは曾祖父、祖父と自宅を津波にもって行かれた経験がある。一方で、比較的高台に自宅があるため「自分の家までは来るとは思わないで、現金も持たずに車で出掛けた」という。

  津波の被害は海から約500b付近まで及んだ。下田さんはがれきとなった自宅の跡から、ストーブの代用にするためのコンクリートブロックを運び出しながら「もうここには戻ってこない。建てても倉庫か何かで住宅は上にする」と話した。


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