盛岡タイムス Web News 2011年 12月 3日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉239 岡澤敏男 帝室林野局のナゾ

 ■帝室林野局のナゾ

  賢治の内部に棲む「柳沢の男」の変遷について前回をもって一通り見終わったつもりだが、その原典である短篇「柳沢」を読みながら凍りついたまま氷解しない気になる箇所があるのです。それは仕切越しに隣室の会話を盗み聞きする様子を描く前段の終り頃、作者(賢治)が漏らす「さうだ、帝室林野局の人たちだ」という一行のことです。

  この短篇の素材は賢治が弟清六と従弟宮沢安太郎、岩田磯吉をつれて岩手登山をした際に仮眠した柳沢の宿でのできごとであることは、同行した清六氏の回想録「麓の若駒たち」が裏打ちしているわけだが、その日は大正6(1917)年10月下旬であることが年譜にみられる。

  ところが「柳沢」を執筆したのは、その3年後にあたる大正9年9月であるらしいのです。校本全集の校異篇によれば、草稿の題名の下方に鉛筆で「大正六年十月」と書き込みがあるという。それは「柳沢の男」と初めて邂逅(こう)した日を指すのでしょう。

  ところが、草稿末尾(第11葉)に青インクで「1922と書いて」すぐ消してその上に「1920/9・│」と記入されていることは何を意味するか気になります。「柳沢」とともに「秋田街道」、「沼森」の草稿末尾にも「1920/9・│」と記入されているのをみると、これら3部作短篇がいずれも「1920/9」とあることから短篇を執筆した期日と理解されるようです。

  賢治は翌年1月に父に無断で上京することを決意していたようだから、数カ月前の9月に高等農林在学中に遭遇した記念すべき体験記録を整理し三つの短篇に収めて清書したものとみられます。それが「1920/9・│」という記入の意味と受け取られます。しかし1920(大正9)年に「柳沢」が執筆されたのであれば、前述した「帝室林野局」という役所のネーミングが引っ掛かってくるのです。

  『帝室林野局五十年史』(昭和14年10月発行)の沿革によれば、役所名について御料局(明治18年12月)↓帝室林野監理局(明治41年1月)↓帝室林野局(大正13年4月)と変遷を遂げているのです。

  すなわち局名が「帝室林野局」と改名されたのは大正13年のことだから「柳沢の男」と邂逅した大正6年はおろか、短篇を執筆したとみられる大正9年でも「帝室林野局」名がまだ使用されていない時期で、正式には「帝室林野管理局」と呼ばれていたわけです。

  賢治が大正9年に執筆した作品に「帝室林野局」と書いているのは、13年に改正する局名を4年も早く先取りしたことになりそれに引っ掛かりを感じたのでした。

  賢治が草稿末尾に最初「1922年」と記したのは、「帝室林野局」とのからみで「1924年」とすべきを誤記したのではなどとも考えてみたが徒労に過ぎなかったらしい。大正9年から大正13年の間に、賢治は「柳沢の男」を清作(「かしはばやしの夜」)↓耕平(「葡萄水」)へと転生させているのです。

  賢治が「柳沢」に書いた「帝室林野局」の局名は「帝室林野管理局」を誤用したのではなく「管理」を書き落としただけのことなのでしょう。そう考えれば凍結した一行もすっかり氷解してしまいます。

  なお「柳沢の男」が訪れた隣室の客は「帝室林野管理局」盛岡事務所の職員だったとみられます。岩手県に委託していた御料地管理を解除し、明治39年9月に開設された盛岡事務所がその事業を引継いだのです。

 ■短篇「柳沢」より抜粋

「今日は君は楽だったろう。」
「えゝ、しかし昨日は鞍掛でまるで一面の篠笹、とても這ふもよぢるもできませんでした。」
「いや、おれの方だってさうだ。さあ、寝るかな。あしたは天気は大丈夫だな。四つまでできるかな。」
「えゝ。」
「やっ、お邪魔しぁんした。まだ入って居ります。置いていきます。」 
「おい、持って行け、持って行け、もう飲まんぞ。」さうだ。帝室林野局の人たちだ。
                (以下省略)


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