盛岡タイムス Web News 2011年 12月 8日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉45 古水一雄 「梨下愁録」(第36冊)

     
  「梨下愁録」(通巻第三十六冊)  
  「梨下愁録」(通巻第三十六冊)  
「梨下愁録」は、明治41年4月1日から5月24日までが綴られていて、冒頭には”イトクヅノツゝキ”と表題風に書かれ続けて次の文章が続けられている。
 
   (四月一日)
   ウツクシキハ褪メル、ナツカシキハ消
   エヌダロ、幼キヨリ相見シ人ハナツカ
   シイ、御とよサンはナツカシキ人デア
   ル
 
  結局お豊との結婚を拒絶したが、決してお豊を気疎く感じてのことではないと改めて自分に言い聞かせているようにも受け取れる。
 
  盛岡中学校に在学してからおよそ4年の歳月を経たが、在学当時の先生の訃報がもたらされた。
 
   (四月十三日)
   夜、佐々木君ニ一書ヲ飛ハス、^川先
   生ガ亡クナツタソウナ、昔々寝(ママ)
   ムクナルヨウナ倫理ノ講義ヲ聞イタ吾
   々ハ心裡一陣ノ悲風無キ能ハヌ、葬式
   ハ明十四日ヒルノナソーナ、ドーデス
   紋付ヲ着テ夕顔瀬ヲ渡ツテ来ナバ寝ム
   カツタ時代ヲ代表シテ二人シテ香ヲ思
   フノデス
    講義ネムカリシ窓ノ桜モ昔カナ
 
   (四月十四日)
   午前、眩暈、午后漸ク癒ユ、
   午后、故^川先生ノ柩ヲ久昌寺ニ送ル、
   谷河翁ノ吊(弔)辞、柩ニ向フテ^川
   先生々々ト大呼ス、柩應ヒズ、満堂ノ
   人惨トシテ敢テ仰ギ見ルナシ、訥々ト
   シテ少時ヨリノ舊交ヲ述ブ、時ニ感極
   マツテ語ツゞカザルヲ見ル、故友皆凋
   落、翁ノ心裡ヲ思フ、又泣カムトス、
   踵(つい)デ門人集ノ吊文朗読、アゝ
   門人アゝ門人、ソノ慇懃ヲ見、ソノ静
   讀ヲ聞ク、先生又以テ瞑ス可キナリ、
 
  亡くなったのは、盛岡中学校時代の恩師であった^川静雄である。^川静雄については藤井茂氏(現新渡戸基金事務局長)が盛岡タイムスに連載した「人づくりの生涯−^川静雄評伝」が現存する最も詳細な著作である。以下その著作によって”人となり”をみていきたい。
 
  ^川静雄は、天保5(1834)年、盛岡藩士の家に2男として生まれている。幼少のころは勉学にはほとんど興味を示さず、15、16歳の時分たまたま通りがかりに談義僧(仏教の布教のために全国を廻っていた僧侶)の巧みな話術に感激し、それから熱心に勉強を始めたという。この頃はまだ学校はなかったので照井小作とか古沢其人といった漢学者の下で教えを受けるようになった。作人館が開館してからは那珂梧楼や藤沢藤崖といった教授に漢学を学んでいる。部屋中漢籍で足の踏み場もないような中で猛烈な乱読と勉強ぶりは、人々をして「あの人は書物を着けた馬だ」と言わしめたほどであったという。

  世相が騒がしくなった慶応年間、盛岡藩学校訓導となっていた^川は、自ら解任を申し出て京都に向かう。京都では塾に身を寄せて世の中の動きをみていたが、明治になって作人館を再興して盛岡藩学校を改称された藩校にと京都から呼びよせられている。

  明治6年に岩手県で初の小学校が創立されると、首座教員(現在の校長職)を命じられ、併せて盛岡師範学校予科教師も務めている。

  世に言う^川塾が創設されたのは明治9年ころのことであったようだ。初期の^川塾は呉服町(現盛岡市中ノ橋通1丁目)にあり、新渡戸稲造の後に旧制一高校長となった国文学者や教育者の菊地寿人や海軍大将の山家他人などを輩出している。また、久慈源一郎、坂牛祐直、上田重良、太田代謹郎といった新聞人が出ている。

  さらに四ッ家(現本町通2丁目)に移ってからは、多士済々幅広い人材を育成している。この時代の^川塾の様子は、大衆作家であった野村胡堂によって「胡堂百話」などに活写されているが、紙面の関係で割愛することにする。

  この時代の塾生には、胡堂の他には、小野寺直助(医師)、伊東圭一郎(新聞人、政治家)、猪狩見龍(医師、クリスチャン)、岩動露子(歌人)、岩動炎天(医者、俳人)、及川古志郎(海軍大将)、郷古潔(実業家)など各界にわたる人材となっている。これは、^川静雄の教育方針が塾生の自主性と自発性を重んじたことによるものと考えられていて、塾生同士の相互啓発と競争心のたまものでもあったろう。

  ^川静雄は、塾(下宿)経営とおよそ同時期に新聞経営(日進新聞)にも乗り出しているが、一時期は発行を日刊にするなどかなり発行部数を伸ばしたものの、日進新聞は御用新聞ともくされていて自由民権運動の流れのなかで衰退せざるをえず、明治17年には事業から撤退している。

  ^川静雄が公立岩手中学校(現盛岡第一高等学校)の助教諭試補として迎えられたのは明治18年のことである。漢文や修身(倫理)を受け持っていたようである。生徒を厳しく指導するわけでもなく淡々とした講義ぶりで、それをよいことに一部の生徒は先生の目の前で窓から抜け出す者もあったという。

     
  ^川静雄(盛岡市立仁王小学校所蔵)  
  ^川静雄(盛岡市立仁王小学校所蔵)  
  春又春のいう”昔々寝ムクナルヤウナ倫理ノ講義ヲ聞イタ”は、そうした^川の講義の様子を物語っている。しかし、石川啄木は「葬列」のなかに鹿川先生として登場させ、かの老教師に対して次のように独白している。”……告白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教えを享けたるに不拘(かかわらず)、今猶しみじみと思出し有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人である。”と。おそらくは、^川静雄の内面に備わった重厚な儒者の威厳に圧倒される思いが啄木のなかにあったのだろう。

  有名な盛岡中学校のストライキ事件の後も、校長をはじめ多くの教員が退職や転任しているなかで、^川静雄と体育教師だけが学校に残ったというのは、啄木ならずとも多くの生徒のなかに^川静雄に向けられた尊厳の思いがあってのことなのであろう。

  葬式当日の参列者の思いもまた、偉大なる儒者を失って悲嘆の涙にくれたのだ。春又春の日記が今日的意味をもつのは、このようなさり気ない歴史を後世に伝えてくれるところにもある。

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