盛岡タイムス Web News 2013年  7月  11日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉62 菊池孝育 大正末期の岩手出身者5


  ■胆澤出身者の住所

  大正15年発行の「加奈陀在留邦人々名録(以下人名録)」によると、水沢出身の藤澤金太郎の住所はP.O. BOX 11 Steveston, B.C.電話(Stev. 47M)となっている。スティブストンで漁業および農業に従事していたと思われる。

  外交資料館の大正2年の旅券下付記録によると、「一九九〇一五 藤澤金太郎、平民、胆澤郡水澤町塩竃字吉小路十四番地ノイ号、明治十八年九月生、保証人藤澤鉄治、吉田源三/英領加奈太の地、修学ノタメ、大正二年四月二十八日」とある。

  藤澤金太郎の住所が吉小路であることから、留守藩士の末裔(まつえい)であることが分かる。多分、大番組十五番に属していた藤澤六郎右エ門の子か孫であろう。留守藩の中で藤澤姓は彼一人である。平民とあるのは、維新前、徳川家から見れば留守藩士は陪臣であったから、藩士は全て平民とされた。

  金太郎は明治18年生まれであるから、吉田愼也の3歳後輩に当たる。保証人の鉄治は父親か親戚であろう。もう一人の保証人吉田源三は、愼也の父である。このことから愼也の呼び寄せ移民の一人であったことが分かる。

  渡航目的の「修学ノタメ」は旅券取得のための便法と考えられる。当時のほとんどの海外渡航者は、学術研究、修学、商業視察等、建前の目的で旅券を取得した。彼は大正2年の渡航時には既に28歳に達していた。

  小山村字後鞍出身の小野寺勘吉はバンクーバーに住んでいた。住所はCor. Gore & Alexander St. Vancouver, B.C.となっている。Cor.はCorner(街角)の意であろう。つまりゴア通りとアレクサンダー街の角地に住んでいた。アレクサンダー街は当時リトル・トーキョウと呼ばれたパウエル街から一路海寄りの街路である。商店を自営していたか、あるいは雇われていたものと考えられる。

  鈴木三男は大正15年ころは帰国していてカナダに住所はない。内田盛の住所はOcean Falls, B.C.となっている。吉田愼也はP.O. Box 8, Steveston, B.C. 電話(Stev. 33)であった。この3人については以前詳しく述べているので、ここでは割愛する。

  以上5人以外の胆沢出身者の住所は確認できない。ただし、人首村出身の泉(旧姓伊藤)千年と吉田(旧姓佐賀)サラの2人を追加する必要がある。サラは愼也夫人である。もちろん両人ともスティブストンに住んでいた。


  ■東磐井出身者の住所

  大正15年の時点で大籠出身の千葉伍市、義実の親子は帰国している。同じく大籠出身の千葉孟と彼の妻子は同年8月まで、Ocean Falls, B.C.の住所であった。9月からバーノンに移住するのである。

  同じく大籠出身者の佐藤栄三郎は、C/o Nanaimo Canners & Packers, Nanaimo B.C.の住所となっている。どうやらナナイモの缶詰会社で働いていたようである。ナナイモはバンクーバー島にあり、ちょうど、本土からジョージア海峡を隔てたバンクーバーの対岸にある。19世紀から交通の要衝であることと、鉱業、漁業で栄えて、バンクーバー島ではビクトリアに次ぐ第二の都市になっていた。

  ナナイモは日本人に「七芋」を連想させ、ひょっとすると日本語ではないか、と思わせるが、これは先住民の言葉である。先住民の祖先もアジア大陸から渡ったモンゴロイドである。よって日本語の音声に似ていても不思議ではない。



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