盛岡タイムス Web News 2013年  7月  25日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉64 菊池孝育 太平洋戦争直前の岩手出身者


  大正10(1921)年までの岩手出身者は死亡者を含めて、およそ57人であった。そのうち西磐井郡出身者16人、次いで胆澤郡出身者15人、東磐井郡からは14人で、その他の地域の出身者は12人に過ぎない。

  それが5年後の大正15(1926)年9月の名簿によると、岩手県出身者は17人に激減している。カナダに滞在中であっても、何らかの理由で名簿から漏れたのか明らかではない。大半は、ある程度財を成して帰国したと判断するのが妥当であろう。出稼ぎ型移民が多かったことを思い起こせば、当然の帰結と考えられるのである。

  加えて、日本の軍備拡張政策に沿った徴兵制度の強化(昭和2年、徴兵令改め兵役法)は、海外の日本人に対しても例外を認めず、在外領事館を通じて兵役の義務の徹底を図った。その頃から、徴兵適齢期の若い移住民は、続々と帰国したのである。バンクーバー日本人会では、徴兵検査に応じる若者に対して、帰国旅費の補助を行った記録もある。

  総じてアメリカ大陸における日系移民は、アメリカ政府およびカナダ政府の動きに敏感であった。例えば、大正9(1920)年のカリフォルニア州の排日土地法によって同州の日系移民は借地権を剥奪された。このことを知ったカナダの日系人も、次はBC州にも波及するのではないか、戦々恐々の毎日であった。また、大正11(1922)年、米国大審院は日本人の帰化不能の判決を下した。アメリカで実施された排日的法案は、次に必ずカナダでも法制化されるというのが通例であった。カナダの日系人は、そのことを経験でよく知っていたのである。

  昭和の初期になると、日本人に対する根強い警戒感が顕著になってくる。特に日本政府の大陸侵攻の野望があらわになるにつれて、日系移民への風当たりも強くなった。

  昭和2(1927)年、第一次山東出兵、翌年の第二次山東出兵、張作霖爆殺事件などのたびに、アメリカ大陸の日系移民は白眼視されるようになる。そして昭和6(1931)年に柳条湖事件〈満州事変の勃発〉となり、遂に翌年、満州国建国宣言となった。この一連の日本政府の画策は、国際的な批判を浴び、昭和8(1933)年、日本政府による国際連盟脱退通告となる。日本の国際社会での孤立化は、アメリカ大陸での日系移民の孤立化をも意味した。

  カナダ西海岸では、日系人には家や土地を売らない、貸さないなどの嫌がらせにとどまらず、全日系人を大陸から追い出そうとする排斥運動も頻発した。日本人が市民権を取得しても、ヨーロッパ系と違って選挙権は与えられなかった。それで日系人の訴えや陳情に耳を傾ける政治家は皆無であった。むしろ日本人排斥運動に力を貸せば、票が増えたのであった。

  このころの日系移民はお先真っ暗な境遇にあった。アメリカ大陸での将来に見切りを付け、帰国を選ぶ者が増えたのも当然であった。

  もともと日系移民は市民権取得後であっても、現地カナダに同化せず、遠い祖国日本に忠誠心を持つ者が多かった。国際的批判を浴びた満州国建国に際しても、日系人はパウエル街やスティブストンで、提灯行列を組んで祝ったのである。日系人は、嫁入り先の家風になじまず、いつまでも実家を思い続け、乏しい収入をやりくりして実家に送金する嫁に似ていた。

  日米、日加間が緊迫化するにつれて、帰国する日本人が増えたのも時代の趨勢(すうせい)と言えた。岩手出身者も例外ではなかったのである。



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします