盛岡タイムス Web News 2013年  7月  30日 (火)

       

■  〈盛岡藩ゆかりの戦国武将〉3秀吉をうならせた宮部継潤 矢萩昭二


     
  旧宮部総本家屋敷跡(加賀野桜山)  
 
旧宮部総本家屋敷跡(加賀野桜山)
 

 ■その後の宮部家―南部藩士として

  そののち宮部家はどうなったのであろうか。分家筋(盛岡宮部家四代、長英次男長宿の流れ)宮部克己氏所有の宮部総本家系図および、南部藩「参考諸家系図」を参考にしながら、その後を追いかけてみよう。

  寛永11年、宮部長熙死後、長男長之は、妾腹の子にて母の縁を頼り、伊賀藤堂家に仕え、千石を領した。

  盛岡宮部家を継いだのは次男長邑(兵蔵)である。藩主重直の知己を得て、家臣達増氏娘を妻にし、二男二女をもうけたが、流人の身であり、失意の中で、寛文4年、62歳で亡くなった。

  孫長興(千勝)の時、寛文7年7月「将軍家犬猷院十七回御忌御法事ノ赦ニ依テ、同八月二日配所ノ罪御免也、依テ其家臣永井傳内へノ命二曰、千勝事、何方長興江茂罷越候共勝手次第たるへく旨被仰出、傳内長興ニ代テ對テ曰、主人事幼少ニ茂御座候間、御家臣ニ御召仕被下置度奉願上候ト、是ニ於テ召抱ラレ、現米二十三駄七十人扶持、高ニシテ六百六十六石ヲ賜フ」により、長熙の配所の罪が許され、何方なり行くも無罪放免となったが、幼い当主を戴く宮部旧臣は、南部家に仕官したい旨、藩主重信に懇願した。重信はこれを受け入れて(大名家の子孫であるがゆえ)、666石という高禄で召抱えた。

  ここに、長興は南部藩士となり、南部家に仕えることになった。彼はやがて信恩の治世、民政に手腕を発揮し花巻郡代となり、宝永7年、77歳で亡くなった。

  ■藩政の中枢に参与―2代にわたって家老職を勤める

  次の長官(宮部主馬または右衛門)は多賀氏と名を改め、多賀頼母と称した。享保10年、御番頭となり、藩主の側近として仕えた。次の長英(靭負=ゆきえ=あるいは兵部)は多賀図書(づしょ)で知られる。南部藩で高知衆の家格である御留守詰御番頭として近時し、宝暦11年には、ついに加判役(家老)となった。

  これに先立つ寛延3年、図書は、藩主に願い出て、弟長薫(長宿)に分地(66石)した。(多賀市郎家、小宮部家始祖)

  現在、山岸在住の宮部克己氏は、この家系の子孫に当たられ、図書が南部藩政に関わって、藩主や家老と取り交わした文書が伝わっている。

  38歳で図書の跡を継いだ嫡男長郷(千勝)も、寛政7年、御側頭となり、翌年には御家老兼帯となった。さらに享和元年、地方200石加増され、都合800石となり、御家門に次ぐ位置に上った。

  長英・長郷2代にわたるこの時期が、多賀氏(宮部家)にとって、最も輝かしい時代であった。

  やがて、享和2年6月、長郷は故ありて御役取り上げられ、御加増200石も取り戻され、半地50人扶持、高にして、300石の平士となった。その理由は不明だが何か失態があったのであろう。同年、長郷は隠居逼塞(ひっそく)させられている。

  長郷の跡を継いだ長識は、それでも御物頭、御用人を勤めて100石の御加増があり、合わせて400石となった。しかし、次の長規の時、故ありて3分の2の俸禄を取り上げられ、133石余となってしまった。

  その後、長識の弟、長規、長貫と続き、長貫の子、謙吉の時、明治維新を迎える。健吉は野辺地戦争において、官軍の軍艦を砲撃、撃退している。後年、岩手紫波郡長等を勤め、明治の好漢として知られる。この時、謙吉は宮部に改姓した。

  以上、南部藩士としての宮部家を見てきた。関が原から四百余年、今や盛岡の風土になじみ、岩手人として各分野に活躍する宮部一族の足跡をうかがうことができる。

  さて、次回からは、愈々(いよいよ)、その大元である、宮部善祥坊継潤の生涯を豊臣政権と関わりの中でひもといていこうと思う。
   (八幡平市博物館前館長)


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