盛岡タイムス Web News 2013年  9月  12日 (水)

       

■  〈風の筆〉17  沢村澄子 神楽の帰り


 久しぶりに神楽を観た。誘ってくれた人には申し訳ないけれど、心底楽しめず、どうしちゃったのかなぁ…アタシ。最近何を見ても感動しないような…。

  年とりゃ皆そうだ、と言う人もあれば、「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と、詩人の茨木のり子さんは言った(※)。

  本当に少しずつココロは乾いていくものなのだろうか。感動もし難くなったが、傷もつきにくくなり、何となくその全てを他人事のように眺めている自分のココロを見つけては、また少し、当惑したりして。

  ところで、わたしは昔からなぜか「ファッション」というものに若干の抵抗があって、自分はおしゃれでないけど、おしゃれな人を見るのは大好きなのに…、と不思議だった。それが今回、神楽を観ていて急に、「ファッションは型なんだ。だから嫌いだったんだ!」と長年の疑問に終止符が。

  見ていて気持ちのいいおしゃれをしている人というのは、型として並んで売られている服も、自分の一部に溶かし込んでいる。いや先に、溶けるもの、自分の一部であり得るものを選ぶのかも知れない。ところが、ただ型をかぶっただけで歩く人の、その違和感たるや何とも奇妙に感じられてどうにも飲み込めず。昔、イタリアのナントカというブランドが大流行した頃、それを着たタレントを見るにつけ、これが似合う日本人って本当にいるんだろうかと、いつも首をひねった。

  神楽も型から習うのだそうだが、「型をやっている」のを観ているのはつらい。では、型ではなく何になればよいか、ということになると、これは書でもファッションでも何でも同じで、「その人」じゃないのかな。型をかぶっても、喰(く)って喰って血肉にして「その人」にしてしまうこと。

  名人と呼ばれる人の舞がただ「その人」にしか見えないことに見応えを覚えて、いや、面白かった。

  そして帰り道、関係者から詳細を聞いてみると、昨今は世の中が大きく変わったから、神楽も昔のようにはいかないのだそうな。

  神楽は、住む土地、そこでの職業、それによって作られる体型、で舞ができていた。農耕か山仕事かでは身体も動きも違った人間ができるから、その土地の舞にはそれらが色濃く反映されていたのだという。しかし、今や、「公務員や薬剤師さんが舞ってますから。20年前、この辺りにコンビニなんかなかったのに…」と、その人は言うのだ。

  芸能だ、文化だ、伝統だ、保存だといっても、しょせん諸行無常。その行方は、それらに関わる人々の生活と同体であることを免れ得まい。だから、昔の必然であった「型」以上に、今の必然を見たい気がしたし、それを舞わんとする人間の、その魂のようなものも、もっと見たいような気がした。

  そして極論、最後はみんな「祈り」になるのではないかしら。踊ることも、歌うことも、画や書をかくことも、今あなたがついた小さなため息も。

     (盛岡市、書家)

  ※『自分の感受性くらい』(花神社、1977年)
 


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