盛岡タイムス Web News 2013年  12月  21日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉346 岡澤敏男 他宗派の寺院を遍歴

 ■他宗派の寺院を遍歴

  賢治の生涯を決める書となった島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』に飛躍する道程には、3歳児(明治32年)の揺籃期から青年期(大正2〜4年)に遍歴した各寺院での助走に目を向けてもよいのではないか。

  浄土真宗「安浄寺」 3歳の頃「正信偈」「白骨の御文章」を唱える。
  日蓮宗「法華寺」 中学2年生(14歳)の頃
   ひげ題目「南無妙法」をノートに落書きする
  曹洞宗「清養院」下宿 中学5年4月(17歳)
  浄土真宗「徳玄寺」下宿 同年5月末
   作品「疑獄元凶」に名を残す
  曹洞宗「報恩寺」 同年9月
   尾崎文英住職について参禅、頭を剃り丸坊主になって登校す
   『雨ニモマケズ手帳』に回想のメモ
  時宗「教浄寺」下宿 高農受験勉強のため(19歳)文語詩「僧の妻面膨れたる」

  以上のように菩提寺・安浄寺を起点として法華寺→清養院→徳玄寺→報恩寺→教浄寺へと寺院を遍歴する賢治の精神史にどんな風が吹き抜けていったのか。

  賢治はどの寺院でも作品に反映する足跡を残しており、通り一遍の通過儀礼ではなかったと考えられる。法華寺では石塔から模写したひげ題目について住職にその由来を尋ね、法華教の教理や日蓮上人に関する知見を得たのではないか。だが、寂しい時には「無意識に小生の口に称名の起こり申し候」(明治45年5月30日宮沢政次郎宛書簡)という他力本願を回向して、禅宗や法華教の聖道門にはまだ距離感があったとみえる。静寂な環境にあった清養院や徳玄寺では仏書に親しみ宗教的思索を深める機縁があった。そして中学5年の9月、ついに曹洞宗報恩寺の門をたたき住職尾崎文英師について参禅の修行することになる。これは自力門に踏み込んだ画期的な第一歩というべきことです。報恩寺での参禅修行は賢治にとってよっぽど印象深かったらしく、晩年の病床で書かれた『雨ニモマケズ手帳』の129n〜132nにある幻想メモは、確かに報恩寺で参禅した時代を回想したものとみられる。

  報恩寺の僧堂には参禅者が多く集まり賢治もその一人でした。文英は学識も深く態度も堂々として「口八丁手八丁」の活動家だったらしい。そのためにおとなしい盛岡人士間に「巨大なるニセ坊主」という評判がたつことになったいう。しかし若い賢治は文英に深く信頼していて次の歌を詠んでいる。

 逞ましき麻のころもの僧来り老師の文をわたしたりけり
  いまはいざ僧堂に入らんあかつきの般若心経夜の普門品

 賢治が真宗の他力信仰に限界を感じたのは、信仰が小乗的であったことと、家業から自立して雄飛しようとする青年期特有の客気にあったと思われる。そうした惑いから脱却しようと異なる宗派の寺院を遍歴することになり、その契機を曹洞宗報恩寺へ参禅することによってつかんだが、惑いの深淵から賢治をすくい上げるには文英師の爽やかな弁舌では不足であったのでしょう。真宗願教寺住職にして学僧として名高い島地大等の出番が必要だったのです。

  ■コラム・346
  『雨ニモマケズ手帳』一二九・一三〇頁
    (「復元版 宮沢賢治手帳」解説より)
   報恩寺(証・削)訂正
しめやかに木魚とゞろき/衆いま誦し出づる(以上一二九頁)/7〜8字空白)/(寿・削除)寿量品第十六や/清らなる(7〜8字分空白)/さらばいざ(えりもととゝのへ・削除)座を解きて跪し(て・削除)/双手して(うち・削除)おろがみ聴かん/(が・削除)わが不会と会(はさもあれや・削除)とのかなたに/み仏(は・削除)のとはにゐますを(以上一三〇頁、以下一二九頁はじめにつづく)/どと落ちしー/(木魚・削除)(偈・削除)木魚いまやゝ急にして/み経はも三請に入る





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