盛岡タイムス Web News   2017年 10月  28日 (土)

       

■ 〈体感思観〉飯森歩 医療と生命倫理考える


  薬王堂(矢巾町)とベンチャー企業のセルスペクト(盛岡市)が来年4月から、最先端の検査装置を用いた無料の健康チェック所を薬王堂店舗で展開する。気軽な検査から病気の早期発見、健康意識を促し、国民全体の健康寿命の延伸につなげるとしている。

  日本の平均寿命が世界最高水準となり国の医療費の膨張が課題となる中、健康寿命の延伸と併せ、病床数を減らして在宅医療・介護を進める「地域包括ケアシステム」など、医療費削減を目的とする政策が目立ち始めてきたように感じる。そこで、医療費抑制策と日本の医療の在り方、生命の意義を合わせて考えてみた。

  まず国や地方の医療費を膨らませる要因の一つに、延命医療があると考える。例ば日本では、そしゃくや嚥下(えんげ)機能が衰えて口から栄養を摂れないと判断された場合、胃ろう(PEC)という胃に穴を空けて管を通し、栄養剤を流し込む方法を選択できる。口からと同様の栄養を摂れるため、生命を維持できるのだ。しかしこの胃ろう、一度始めたら、本人の意識がなくなっても中止は許されない。中断すると死亡するため、殺人とみなされるからである。歩くことも意思疎通を取ることもなく、数年間ベッドで寝て過ごす人も少なくないという。

  命を守るために最善の医療を尽くすことが日本の医療のベースである以上、こうした終わりの見えない長期間の延命治療は増え、高額な医療費につながっていく。

  考えるべきは、人体が機能することを生命と定義するのか、である。フランスでは「本人が望んでいるか分からない治療を続けるのは人権侵害」という考えから、人工栄養での生命維持をやや制限する法律がある。たしかに生きる喜びを実感することなく、ただ命をつなぐだけの状態に置くことは本人、家族、誰にとっての幸せなのか。しかし、意識はなくとも本人を前に、措置をすれば命が助かると理解した上で、それを拒否できる家族は多いのだろうか。

  死、命の在り方を尊慮した医療体制を思索する時である。国や医療機関だけでなく、本人、家族が最終段階の終末期医療の判断を考える必要がある。その答えを出すのは生易しいことでないが、生きる実感を持てないまま生き永らえることが生命なのか、そうではないのか、あらゆる生命倫理の観点から答えを導き出さればならない局面にある。


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